山崎蘭洲

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文教面における第一人者であり、藩校稽古館の創設に大きくかかわった人物に山崎蘭洲(一七三三~一七九九)がいる。諱(いみな)は道冲、字は仲漠、通称は丈助(常助)後に改め図書、蘭洲はその号である。幼いころより詩文に才を発揮し、十九歳で江戸に出て修学すること三年、学成って帰藩し、宝暦六年父の跡を継いで儒医を命じられた。その後、京都・長崎・熊本に遊学し、広く人士と交わり儒学・暦学・医学の研鑽に努めた。彼と親交のあった者には大坂懐徳堂(かいとくどう)の儒者五井蘭洲(ごいらんしゅう)、同じく大坂の文人木村蒹葭堂(けんかどう)、京都古義堂の儒者伊藤東所(とうしょ)(伊藤東涯(とうがい)の長男)、熊本藩校時習館の儒官藪孤山(やぶこざん)および古屋愛日斎(ふるやあいじつさい)等々の名が挙げられる。その抜群の学識と温恭な人柄をもって城中講釈を命じられ、さらに学校創設の命を受け尽力し、開校に当たっては小司(学官名典成)に就任した。学校懸を仰せつけられた葛西善太清俊、唐牛(かろうじ)大六満春、伴才助建尹(たけただ)、工藤民助懿文(いぶん)はいずれも彼の薫陶を受けた門人であった。門弟達の編集による詩文集「蘭洲先生遺稿」五巻五冊が文化二年(一八〇五)津軽稽古館蔵活版として刊行された。「蘭洲先生遺稿」には、「文」(詩文、文学)と「道」(道徳、道学)とが分かれ、「二道」となってしまった当世の学問世界の状況を憂えている一文(巻五「復松田正公卿」)があるが、これは徂徠学流行に伴う近年の学者のあり方への批判を意味しよう。蘭洲は、「修辞」のみに拘泥し、「道」を「修める」ことを怠ったものとして徂徠学を批判した、篤実な朱子学者であった。

図173.蘭洲先生遺稿
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