弘前県から青森県へ

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九月五日野田豁通(ひろみち)が弘前県大参事に任ぜられた。野田は熊本藩士だが、上京して横井小楠(よこいしょうなん)を師として勉学、さらに由利公正(ゆりきみまさ)に会計学を学んだ。野田と青森県の結びつきは箱館戦争以来である。明治新政府は軍務官太田亥和太(いわた)を政府軍参謀として奥羽に派遣したが、太田は同門同郷の野田を周旋、野田は明治元年九月十四日清水谷公考(きんなる)箱館府知事のもとに軍務官雇(やとい)として出張する。翌十月二十日榎本軍が噴火湾鷲ノ木に上陸したため野田は軍監となり、さらに青森口全軍会計総轄を命ぜられる。仕事は武器、弾薬、被服、食糧、軍用金の調達、外国船雇い入れと兵員輸送、藩地への情報伝達など忙しく、さらに戦争終結後、松前、津軽両藩の戦費を取りまとめた。兵部少録(ひょうぶしょうろく)に任ぜられ、明治二年八月二十三日胆沢(いざわ)県(現岩手県の一部)少参事、そして四年九月五日弘前県大参事に任命された。

写真3 野田豁道

 野田は、箱館戦争の始終から弘前藩の重臣や青森・弘前の富豪らと交渉が深く、県内の民度や気質、問題点を熟知していた。それで、弘前県に着任する前に大蔵省に県行政に関する二一件の伺いを立てた。伺いは、第一に県庁の青森移転、すなわち弘前県が消えて青森県が誕生するということだった。移転の理由は、合県の場合、弘前の位置が偏偶にて不便、また、県庁が弘前城下だと封建の旧弊から抜け出しがたく、諸事御一新の目的が達しがたい、これに対して青森は「陸羽第一ノ大港ニテ海運得便、陸奥渡島(おしま)両国ヲ管轄スルニ最上ノ要地」ということだった。また、戊辰戦争の功労賞の「三陸二岩触頭(ふれがしら)」職務の解除、旧六県官員の総免職と精選再雇用など、新生青森県への意欲にあふれたものだった。さらに元斗南県移住の一万七三二七人・四三三二戸の救済を強く訴えた。野田の提案は、会計の専門家らしく合理的で、きっちりした裏づけがあった。
 政府は、九月二十三日、県庁の移転、県名の変更を令達した。県名については戦前に文化史家宮武外骨(がいこつ)が一つの見解を出している。廃藩置県により二六一藩は藩名を県名としたが、その後の統合、合県による県名は順逆によって賞罰を加味したものであるという。つまり、維新に勲功のあった大藩は県名に藩名をつけ、朝敵や日和見(ひよりみ)の大藩は藩名をつけず郡名とか県庁所在地の名前を県名にしたという。この点について、政治地理学の林正巳はさらに詳しく検討している。その意味では、明治四年九月四日、六県合県の新しい県に政府が弘前県の名を認めたのは、弘前藩が忠勤藩と見なされていたということである。そして、九月二十三日、太政官布達第二号で「弘前県 其県庁青森へ相移改て青森と可称事」と青森県を称することになった。実際に青森に県庁が開庁されたのは十二月一日である。

図1 青森県の成立

 それにしても、県庁を青森へ移すことへの弘前人士の反対運動があまり表面化しなかった。それは、維新の流れが急激で、特に新政府に抵抗した東北諸藩の惨めな様子を見、就中(なかんずく)、斗南県を抱え込んでいる以上、また、山田登の一味四人が弘前藩政の非を弾正台(だんじょうだい)に数十ヶ条告訴し、山田登が永禁固、一味三十数人が処罰される事件が明治四年正月から七月にかけて起きて、新政府の方針に抵抗する気運の生ずる状況でなかった。しかし、弘前を県の中心に考える伏流の現れを国立大学の弘前設置にみる研究者もいるぐらい根深い。