「農事調査」と中津軽郡

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明治十年代の松方財政による殖産興業政策の転換は、特に地方経済の悪化の要因となったが、これに対して農商務次官前田正名は「興業意見」を編纂、詳細な「府県農事調査」を実施して地方振興を図ろうとした。同二十年代、前田は農商務省退官後、各地で地方産業・中小企業の保護育成のために産業振興を説き回り、「町村是」普及に努めた。前田の「青森県農事調査」(『明治中期産業運動資料』第一巻、日本経済評論社、一九七九年)所収の「中津軽郡農業備考」(資料近・現代1No.二〇〇)は、明治二十年前後の本地域の様子を詳細に描いている。
 要約すると、中津軽郡の土地の四〇%は作物栽培に適地であるが、五五%は荒れ地、五%は砂地で、半分以上は肥沃ではなかった。気候は、降霜の始まりが十月二十日ごろで終わりは十一月二十日ごろ、降雪は十一月十日ごろで融雪が四月十日ごろとあり、当時は現在より寒冷であった。農産物の剰余はなく、米、大豆、小豆、藍、煙草のどれもが不足しており、人々は虫送り雨乞いの行事などに参集して神官の祈りとともに五穀豊穣を願うのが慣習であった。農家の生活状態については、専業農家は決して裕福とは言えないものの、中流以上の者は食糧を蓄えることができ、それ以外の者は食糧不足の者もいるが、全体として生活に困窮する者は少なかった。兼業農家は農外から収入を得ているが、自作地が少ないために収入はわずかであり、生活状態はよくない。しかし、兼業農家の上流は専業農家の中流と遜(そん)色のない生活をしていた。
 副業として一般的だったのは、藁細工養蚕、炭焼のほか、川漁、山菜の販売などであった。農家の一般的な一日の労働の様子は、冬季の夜間は藁細工などを営み、夏季は通常、朝六時から夕方の六時まで働くが、日中は三時間ほど休憩をとり、夜は午後八時から十時ごろまで夜業に励んでいた。一年の休業日は、田植え後一週間、祭日一五日間、正月七日間、お盆七日間、節句五日間、耕作前の一日と収穫終了後の七日間など、おおよそ年七〇日とっている、とある。当時の村ごとの貯蓄(金穀)の状況は表10のとおりである。
表10 農家の貯蓄(金穀)状況(明治21年)
村 名籾石数貯蓄人数
石   勺
清水村280 373 2625
千年村211 352 0306
堀越村357 438 0390
豊田村338 415 1452
和徳村620 421 0419
西目屋村211 607 4295
東目屋村304 776 0334
相馬村190 850 0219
駒越村417 600 0383
大浦村376 152 5323
船沢村267 354 3361
岩木村384 580 0468
高杉村228 800 0405
藤代村386 766 7821
新和村1,157 895 0518
裾野村145 415 0267
合 計5,879 862 26,586
前掲「中津軽郡農業備考」より作成

「農事調査」は、地域内の欠点として、負債の大きいことを挙げている。明治二十一年(一八八八)の時点で、農家の負債総額は概算で一八万五八〇〇円、農家一戸にして二九円五五銭八厘、一人当たり二円三三銭七厘になると分析されている。また、「貧民」も多く、明治二十一年に救済を受けた者は七三五人で、救助米は七三三石五斗一升七合を数え、他郡と比較すると多い方であると指摘している。さらに、滞納者も三六〇七人、一万四二八二円を数え、人数、金額ともに多い地域であった。
 逆に農業で有利な面として、交通、人口の多い弘前市街があることから、肥料(馬厩、人糞)の確保、果実・蔬菜(そさい)の販路が便利であると指摘されている。
 また、「農事調査」の「陸奥国中津軽郡農産地図」によれば、各村の中心的な農産物として、弘前市街-林檎・養蚕葡萄清水村-米・小麦・蕎麦・大根、千年村-米・粟、堀越村-米、豊田村-米、和徳村-米、西目屋村-米・炭・薪、東目屋村-米・煙草、相馬村-米、駒越村-米、大浦村-米、船沢村-米、岩木村-米・稗(ひえ)・麻・瓜哇芋(ジャガイモ)、高杉村-米、藤代村-米、新和村-米・大豆・小豆・粟・菜種、裾野村-米が主要なものとして挙げられている。