要約すると、中津軽郡の土地の四〇%は作物栽培に適地であるが、五五%は荒れ地、五%は砂地で、半分以上は肥沃ではなかった。気候は、降霜の始まりが十月二十日ごろで終わりは十一月二十日ごろ、降雪は十一月十日ごろで融雪が四月十日ごろとあり、当時は現在より寒冷であった。農産物の剰余はなく、米、大豆、小豆、藍、煙草のどれもが不足しており、人々は虫送り、雨乞いの行事などに参集して神官の祈りとともに五穀豊穣を願うのが慣習であった。農家の生活状態については、専業農家は決して裕福とは言えないものの、中流以上の者は食糧を蓄えることができ、それ以外の者は食糧不足の者もいるが、全体として生活に困窮する者は少なかった。兼業農家は農外から収入を得ているが、自作地が少ないために収入はわずかであり、生活状態はよくない。しかし、兼業農家の上流は専業農家の中流と遜(そん)色のない生活をしていた。
副業として一般的だったのは、藁細工、養蚕、炭焼のほか、川漁、山菜の販売などであった。農家の一般的な一日の労働の様子は、冬季の夜間は藁細工などを営み、夏季は通常、朝六時から夕方の六時まで働くが、日中は三時間ほど休憩をとり、夜は午後八時から十時ごろまで夜業に励んでいた。一年の休業日は、田植え後一週間、祭日一五日間、正月七日間、お盆七日間、節句五日間、耕作前の一日と収穫終了後の七日間など、おおよそ年七〇日とっている、とある。当時の村ごとの貯蓄(金穀)の状況は表10のとおりである。
表10 農家の貯蓄(金穀)状況(明治21年) |
村 名 | 籾石数 | 貯蓄人数 |
石 勺 | 人 | |
清水村 | 280 373 2 | 625 |
千年村 | 211 352 0 | 306 |
堀越村 | 357 438 0 | 390 |
豊田村 | 338 415 1 | 452 |
和徳村 | 620 421 0 | 419 |
西目屋村 | 211 607 4 | 295 |
東目屋村 | 304 776 0 | 334 |
相馬村 | 190 850 0 | 219 |
駒越村 | 417 600 0 | 383 |
大浦村 | 376 152 5 | 323 |
船沢村 | 267 354 3 | 361 |
岩木村 | 384 580 0 | 468 |
高杉村 | 228 800 0 | 405 |
藤代村 | 386 766 7 | 821 |
新和村 | 1,157 895 0 | 518 |
裾野村 | 145 415 0 | 267 |
合 計 | 5,879 862 2 | 6,586 |
前掲「中津軽郡農業備考」より作成 |
「農事調査」は、地域内の欠点として、負債の大きいことを挙げている。明治二十一年(一八八八)の時点で、農家の負債総額は概算で一八万五八〇〇円、農家一戸にして二九円五五銭八厘、一人当たり二円三三銭七厘になると分析されている。また、「貧民」も多く、明治二十一年に救済を受けた者は七三五人で、救助米は七三三石五斗一升七合を数え、他郡と比較すると多い方であると指摘している。さらに、滞納者も三六〇七人、一万四二八二円を数え、人数、金額ともに多い地域であった。
逆に農業で有利な面として、交通、人口の多い弘前市街があることから、肥料(馬厩、人糞)の確保、果実・蔬菜(そさい)の販路が便利であると指摘されている。
また、「農事調査」の「陸奥国中津軽郡農産地図」によれば、各村の中心的な農産物として、弘前市街-林檎・養蚕・葡萄、清水村-米・小麦・蕎麦・大根、千年村-米・粟、堀越村-米、豊田村-米、和徳村-米、西目屋村-米・炭・薪、東目屋村-米・煙草、相馬村-米、駒越村-米、大浦村-米、船沢村-米、岩木村-米・稗(ひえ)・麻・瓜哇芋(ジャガイモ)、高杉村-米、藤代村-米、新和村-米・大豆・小豆・粟・菜種、裾野村-米が主要なものとして挙げられている。