ランプと写真

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灯火の変遷も、また、明治の新文化を最もよく表している。それまで行灯(あんどん)に菜種油をとぼしたり、魚油をとぼしたりして暗い夜を過ごしてきた人々には、洋灯(ランプ)の輝きは文明開化であった。
 ランプは幕末の開港とともに外国から輸入されていたが、この地方では明治三年八月に青森に設けられた、後の三井銀行支店で灯したのが始まりであるという(「弘藩明治一統誌 月令雑報」)。ランプは行灯に比べてはるかに明るく、また、どこにでも自由に持ち運べて便利であったため、急速に弘前でも普及していったものと思われる。そして、明治六年には、ランプの使用に伴う石炭油(石油のこと)の取り扱いについて、次のような県布達まで出ているほどである。
石炭油は魚油・種油と違ひ、火気招く至て早く、疎忽の取扱より「ランプ」を破り、或は油樽に火気移り、人身を害する者少なからす候条、銘々心を用ひ疎忽の取扱無之様可致、万一過て火気移りたる時は、灰・砂・蒲団・フランケットの類を打掛け、木・竹にて打撲し、或は足にて踏付可申、水を灌き候得は油気益激し火気甚炎盛に至候条、水は決して灌き申間敷、右は少々の過ちより大害を醸候義に付、銘々疎忽之取扱無之様可致云々(下略)。(明治六年七月五日)

 当時ランプの値段は六〇銭で、行灯の菜種油が一合三銭六厘であったのに対し、石油は一合五銭八厘という高値であった(「弘藩明治一統誌」)。しかし、明るい石油の方が結局利得であること、そして開化の灯を掲げる喜びもあって、ランプはまず客商売の旅籠屋、湯屋、理髪床などで率先して灯され始め、次第に一般家庭に及んでいったのである。かくして明治三十年代のランプの全盛時代を迎えるようになるのであるが、どこの家でもランプのホヤ磨きは子供の役目であった。火灯し頃ともなれば、子供たちも遊びをやめてボロ切れでホヤを磨いたり、石油を買いに使い走りしたりする情景がこれから見られるようになった。

写真38 ランプ

 行灯がランプに代わって姿を消していった後も、久しく残ったのは提灯(ちょうちん)である。当時は夜の無提灯の出歩きが禁じられていたので、夜間の外出には、士族は馬乗(馬上)提灯といって、弓張提灯の長い形のものを持って歩いた。旧藩時代は熨斗目(のしめ)以上の士分は、この提灯の前後に黒の定紋をつけ、それ以下では前に黒紋、後に薄黒紋をつけたものであった。町家や百姓はブラリ提灯であった。馬に乗った時は丸形のもので、細長い柄を腰に差した。手丸(てまる)と呼んでいたのがこれである。
 写真術は、幕末にオランダ人によってもたらされ、そのころから長崎や江戸で一部の間には行われていたというが、明治になってたちまち文明開化の波に乗り、珍奇な舶来品に対する好奇心もあって、一般にもてはやされるようになった。弘前で初めて写真を見たというのは、『兼松石居先生伝』(森林助著、昭和六年)に、明治二年七月九日、石居が九十九森の仰松亭に佐々木元俊を訪ねた際、同席の函館の人・横山某が写したという函館港の写真を見たとあるのがそれではないかと思われる。
 石居は幕末の藩儒として名高いが、元来江戸で生まれ、安政四年に四十八歳で弘前に帰るまで江戸詰であったので、進歩的な思想の持ち主であった。彼自身明治初年に写真を撮り、その写真の自像に題した詩の一節に、「泰西伝奇器、写真如合符、山川及人物、留影不銖」と感想を述べている。石居はその後明治九年に東京でも写真を撮っている。
 さて、明治初年のころ、弘前を訪れた函館の小林友八から初めて写真術を修めたのは、田井隼人柴田一奇、西谷休之助の三人であった。西谷は親方町に住み、人形小細工の技芸に優れたが、撮影技術を修めたのち自宅に写場を設けたという。彼が明治四、五年のころに撮った旧城内天守閣付近の写真が現存している。柴田は親方町野村常三郎の女婿で元長町に住んでいた。田井隼人の子晨善(あきよし)はまもなく横浜で写真術を修得して帰り、十一年ごろに下白銀町に開業した。田井の門弟神忍は、十三年から写真業を始めたが、十九年に上京して技術を積み、二十四年から塩分町に開業した。のち元寺町に移ったが、火災後は本町に転住した。また、十四、五年ごろには矢川璉が下白銀町に開業した。当時の写真はみなガラス写真で、印画紙に焼き付けるのはまだ後のことである。