東奥義塾開学

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明治五年十一月、東奥義塾が開学した。その直接の前身は、旧弘前藩学校を引き継いで、明治五年五月に設立された弘前漢英学校である。これに先立つ同年八月には、学制が頒布されている。このとき、旧藩学を継承した各府県の学校はおおむね存続の危機に直面したが、実際には名称を変えるなどして近代学校に連続した学校も多かったとされる。東奥義塾はその中の一つであった。国や県からの補助を受けなかった東奥義塾の開学を可能にしたのは、旧藩主津軽承昭の財政援助によるところが大きい。承昭は五〇〇〇円の開学資金及び「奨学の書」を学校に寄せるなど、物心両面から同校を支えた。また、明治八年から年額三〇〇〇円の資金援助も行い、これは東奥義塾の主要な財源となった。

写真39 津軽承昭公から東奥義塾へ寄附金調書(菊池九郎筆)

 東奥義塾開学の中心となったのは、兼松成言、吉川泰次郎菊池九郎成田五十穂の四人である。そのうち、東奥義塾の正史である『東奥義塾一覧』に結社人筆頭で名前が挙げられた兼松成言は、弘前藩において和洋両学に通じた学者として藩校稽古館の教育に当たっており、明治三年には現在の学校長に当たる稽古館督学となった人物である。吉川は明治四年に弘前藩で青森に英学校を開設した際に慶応義塾から招聘され、廃藩置県など激動の政治情勢の中で同校が閉鎖になった後も、弘前に残って後進の指導に当たっていた。菊池、成田はともに慶応義塾で学んでいた。
 特に当時二十代の若者だった菊池は、財政面など東奥義塾の実質的な経営を一手に引き受けており、「東奥義塾の創意者」と称された。菊池自身は、中等教育はあくまで私立が望ましいとの信念を持っており、旧藩学校の伝統を受け継ぐ各地の学校が公立となっていく中で、東奥義塾が私立であった背景には、菊池九郎の考え方も影響したと推察される。
 東奥義塾は旧藩校以来の教師陣、学校設備、教科書などもほぼ引き継いで開校し、さらに前述のように旧藩主の庇護を受けていた。実質的に旧弘前藩学校を継承する存在であり、公立の教育体制がなかなか整わなかった津軽地方において、小学校教育女子教育も手がけるなど、同校はきわめて啓蒙的な学校であったと言ってよい。特にその教育を特徴づけたのは、開学当初から同校で教鞭をとった外国人教師たちであった。

写真40 明治9年全校生と教職員