まずは、福島中隊長が八甲田越えを成し遂げ、上司の友安治延旅団長に報告している記事である。
友安旅団長と福嶋大尉
最初三十一聯隊雪中行軍隊の行軍予定は、青森より油川を経て梵珠岳を横断し、夫れより原子山の連岳廻渓を通過して帰営の目的なりしなるか、待つ兼ね居る友安旅団長は一隊に語して曰く、第五聯隊の惨状を見る今日なれは一隊若□〔し〕怪我等あらんには申分なからん、諸氏等は酷寒の絶壁峻険なる八甲田山を通過したる憤発と其気力に依りて見れは、何つれの高山も何つれの深渓も踰(こ)へられさるのことなきは既に証し得て余りあり、今日は最早予定通りを実行するに及はすと切に之を止む、大尉意気は尤も盛にして猶ほ予定通りの梵珠諸山の進行を請ふ、去れとも許されさるを以て遺憾なから青森より浪岡を指して行進したるなりと、旅団長の山岳行進を停止したるも大尉の初心を貫かんとしたるも共に軍人の美事といふへし
最初三十一聯隊雪中行軍隊の行軍予定は、青森より油川を経て梵珠岳を横断し、夫れより原子山の連岳廻渓を通過して帰営の目的なりしなるか、待つ兼ね居る友安旅団長は一隊に語して曰く、第五聯隊の惨状を見る今日なれは一隊若□〔し〕怪我等あらんには申分なからん、諸氏等は酷寒の絶壁峻険なる八甲田山を通過したる憤発と其気力に依りて見れは、何つれの高山も何つれの深渓も踰(こ)へられさるのことなきは既に証し得て余りあり、今日は最早予定通りを実行するに及はすと切に之を止む、大尉意気は尤も盛にして猶ほ予定通りの梵珠諸山の進行を請ふ、去れとも許されさるを以て遺憾なから青森より浪岡を指して行進したるなりと、旅団長の山岳行進を停止したるも大尉の初心を貫かんとしたるも共に軍人の美事といふへし
八甲田越えを終えた三一連隊は、青森到着後、梵珠山を越えて弘前に向かう予定だった。けれども五連隊の悲劇が起こったこともあって、友安旅団長は三一連隊に街道を経由しての帰営を命じた。これには立見尚文師団長の指示もあったろう。これに対し、福島中隊長は計画の実行を執拗(よう)に迫っている。高木の一連の研究では、福島中隊長と友安旅団長の間に確執があり、それが後々福島中隊長の出世に大きく響いたという。福島中隊長は友安旅団長を上司として評価していなかった。そのため福島中隊長は行軍の成功という快挙を成し遂げながら、人事異動で左遷とも思われる処遇を受けた。そして最終的に日露戦争でも前線部隊を任せられ戦死している。
五連隊兵士は戦死者同様の名誉ある待遇を受け、天皇からもお墨付きをもらっている。後藤房之助伍長などは銅像にまで祭り上げられ、現在も観光の目玉として八甲田山麓に立っている。ところが三一連隊と福島中隊長に関しては、国家から名誉の扱いを受けるどころか、記念銅像も顕彰碑も立てられず、歴史のなかに抹殺させられた。雪中行軍の謎は、三一連隊の行軍隊の快挙が隠蔽されたことに端を発しているといってもよい。
それでも行軍完遂当初は、新聞でも三一連隊を賞賛する記事があった。『東奥日報』もその例に漏れないが、二月四日付『東奥日報』でも、三一連隊の快挙に関する記事が掲載されている。これも引用しておきたい。
三十一連隊昇進者
今回の雪中行軍田代より青森に出つ、嚮(きょう)導の任務を全ふしたる同聯隊第二中隊二等卒小山内福松及第八中隊喇叭(らっぱ)手二等卒山上与作の二氏は何れも一等卒に昇進せらる
記念徽(き)章
歩兵第三十一聯隊雪中行軍隊へ慰労として弘前市より金五十円寄附せるが、同隊に於ては一は行軍隊の紀念として一は市民の厚意を保維せんか為め、それにて徽章を東京の天賞堂に依頼し出来の上は授与する筈なりと、其の徽章の表は雪中行軍隊名誉之紀念と書し、裏には明治三十五年一月三十一日弘前市民一同寄贈と書する筈なりといふ
行軍記録
此度歩兵第三十一聯隊に於て福嶋大尉以下雪中行軍の状況を調査し、完全なる記録を編製し其筋に報告すると云ふか、此報告は天覧を辱ふするとの事なり、名誉なりといふへし
今回の雪中行軍田代より青森に出つ、嚮(きょう)導の任務を全ふしたる同聯隊第二中隊二等卒小山内福松及第八中隊喇叭(らっぱ)手二等卒山上与作の二氏は何れも一等卒に昇進せらる
記念徽(き)章
歩兵第三十一聯隊雪中行軍隊へ慰労として弘前市より金五十円寄附せるが、同隊に於ては一は行軍隊の紀念として一は市民の厚意を保維せんか為め、それにて徽章を東京の天賞堂に依頼し出来の上は授与する筈なりと、其の徽章の表は雪中行軍隊名誉之紀念と書し、裏には明治三十五年一月三十一日弘前市民一同寄贈と書する筈なりといふ
行軍記録
此度歩兵第三十一聯隊に於て福嶋大尉以下雪中行軍の状況を調査し、完全なる記録を編製し其筋に報告すると云ふか、此報告は天覧を辱ふするとの事なり、名誉なりといふへし
三一連隊の兵士が昇進し、連隊が所在する弘前市が慰労金を寄贈するなど、三一連隊の壮挙を祝う人々がいたことを記事は証明している。とくに弘前市民の感激はわずか数行の記事では表せないものがあっただろう。三一連隊の行軍隊の記録が正式に編纂され、明治天皇に閲覧されるとあるが、中隊長の身分としては破格の対応だった。三一連隊はそれほどの快挙を成し遂げたのである。
だがこうした三一連隊の功績も、周知のように五連隊の悲劇の前に隠蔽されていった。二月四日の『東奥日報』記事には、その様子がよく示されている。三一連隊の児玉連隊長は連隊の慰労会で、本来ならば盛会を開くところを、五連隊の悲劇に鑑み遠慮したと告げている(この記事を含め、二月四日付『東奥日報』の記事内容については、青森市史編集委員会『新青森市史』資料編6 近代(1)、青森市、二〇〇四年に数多く収載されているので参照されたい)。
六〇周年記念行事の数年後に新田次郎の小説と映画が紹介され、雪中行軍は一躍国民的に有名となった。だが一〇〇年を越えた今、その記憶は風化しつつある。雪中行軍遭難資料館が老朽化し、それを管理する八甲田山雪中行軍遭難史蹟保存会も、メンバーの高齢化と費用不足から、平成十四年(二〇〇二)六月二十三日に開催された一〇〇周年記念式典をもって活動に終止符を打っている。その反面、福島中隊長の指導力や三一連隊の行軍隊の快挙に関する研究や文献が、ここ数年頻出している。深刻な政治不信や不景気改善のために、強力なリーダーシップを求める声が高まっている。経営学や組織論の観点から、福島中隊長と三一連隊の行軍隊に学ぼうという人々が増えてきているからだろう。