日露戦争の間にロシア人捕虜が弘前市に連行されることになった。政府と大本営は、明治三十八年(一九〇五)六月十五日に樺太攻略作戦を決定し、二日後に上奏・裁可された。この樺太作戦では第一三師団が活躍し、七月三十一日にロシア軍が降伏して、全樺太が平定された。この作戦のさなか、七月二十七日、弘前に捕虜収容所(当時は俘虜収容所と呼ばれていた)が設けられた。捕虜収容所は愛媛県の松山収容所のほか、全国二九ヵ所に設けられた。
ロシア人捕虜は第一三師団将兵に連れられ、七月二十三日に青森港に上陸した。捕虜は五回に分けて上陸し、将校や兵卒のほか、その家族、文官など七〇〇人以上にのぼった。青森港に上陸した捕虜たちは、青森市内の寺院にいったん収容された後、一部は弘前の捕虜収容所に送られた。日本政府は国際情勢を有利に導くため、ロシア人捕虜を手厚く遇した。その点は第二次世界大戦時の日本軍の対応とは大きな差があった。
しかし戦勝気分から、ロシア人捕虜に対して侮蔑的態度をとった民衆がいたことも確かだった。三月二十五日に東津軽郡役所が各村長宛に出した通達によると、捕虜に対して用意周到に準備し、村民が捕虜に乱暴をはたらかないよう注意している。そのなかで「殊ニ出征軍人ノ家族若クハ遺族ニ対シテハ不心得ノコトナキ様注意ヲ加フルコト」とあるのは注目されよう(『日露戦争関係書類綴』青森市所蔵)。黒溝台の会戦で多くの将兵を失った第八師団管下の弘前市民ないし青森県民にとって、敵国ロシアとロシア人に対する憎悪が深かったことは想像がつこう。前記通達には、実際に捕虜に対し罵詈(ばり)雑言を浴びせたり、土砂を撒(ま)いたりする者がいたとの報告も記されている。
ロシア人捕虜の来弘に対しては、やはり物珍しい出来事だったのだろう、捕虜を最初に迎えた青森市民も、収容所が設けられた弘前市の市民も、捕虜見物に多数が押しかけている。なかには捕虜に対して商売を試みようとした者もいたという。捕虜たちは基本的に収容所(弘前市では土手町天理教教会などが充てられた)に隔離されたが、その家族たちは町なかに出て散歩することもあった。