ところで、鉄道が普及する以前は、乗合馬車が長距離輸送の手段であった。明治二十年代初頭には共同馬車会社・青弘馬車会社の二社が営業していた。後者について知る史料はないが、共同馬車会社(青森浜町)は、馬車台数二八輌で、同盟員は青森五人、弘前三人(田辺粂吉・福津兼蔵・鹿内友蔵)、碇ヶ関二人、蔵館(現大鰐町蔵館)三人、大鰐二人、小湊(現平内町小湊)一人、野辺地一人で構成され、相当広い営業圏を持っていた。明治二十二年当時の青森各地間の運賃は次のとおりである。
新城 | 大釈迦 | 浪岡 | 弘前 | 大鰐 | 碇ヶ関運賃 | |
八・五銭 | 二三銭 | 三〇・五銭 | 五五・五銭 | 七三銭 | 八八銭 | |
備考 | 悪路三割増 |
ところが、明治二十四年になって、独立馬車会社が加わり、馬車会社同士が熾(し)烈な競争を開始し、青森-浪岡間一五銭、弘前-浪岡間一〇銭ぐらいまで値引きして、客を奪い合った。この巻き添えを食ったのが人力車で、市外用の乗り物としては姿を消してしまった。しかし、当時の道路状態は舗装もなく悪路であったので、春秋のころともなれば、弘青間三割増で七一・五銭から一円にもなろうかという状況であった。弘前-浪岡間の道路状態は比較的よかったが、その先がひどく、苗代同様の泥濘(ねい)状態であった。
しかし馬車は、鉄道の発達とともにその沿線から駆逐され、鉄道駅周辺の近距離輸送という役割に転じていったものの、自動車が普及するまでは、馬車はなお近郊の交通には欠くことのできない重要な運輸手段であった。
写真85 弘前駅前の乗合馬車