弘前地方米穀商組合の活動

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津軽地方は米の移出地であり、北海道、特に函館を中心とする地域に移出されていた。移出港としては青森や鰺ヶ沢があり、米取引の組織も移出の実態に合ったように形成されていた。そうした組織に県は指導方針を伝えていたのである。
 明治二十五年(一八九二)に青森県知事から弘前市を含めた津軽各郡の役所や町村役場に次の訓示が行われた。
訓示第二十一号      津軽五郡役所
             弘前市役所
             津軽五郡内 町村役場
県下重要物産タル米穀ノ改良ヲ図ランカ為メ去ル十九年以来米商ハ組合ヲ設ケ輸出米検査ニ従事シ農家モ亦種子精撰其他改良ノ点ニ注意セシ結果トシテ一時稍声価ヲ博スルノ好況ニ有之候処挽近函舘市上ニ搬出スル津軽米ハ籾、稗、若クハ粃米等ヲ混入スルコト不尠随テ声価低落将来販路閉塞ノ懸念ナキ能ハス殊ニ本年ハ稀有ノ農作ナルヲ以テ之レカ輸出ヲ増加スヘキハ勿論ニ付農商一致深ク此点ニ注意シ米拵ヲシテ充分精良ナラシムル様当業者ヘ懇篤諭示スヘシ
右訓示ス
 明治廿五年十一月九日
                                  知事
(『青森県勧業要報』三四)

 これによれば、明治十九年(一八八六)以降、米商の組合が活躍しているにもかかわらず、米の品質に問題があり、函館市場で声価が低落する恐れがあるので注意が必要というのである。
 なお、明治十九年に設置された米商組合は津軽五郡を域とし、輸出米の改良を目的として、青森、鰺ヶ沢、油川、十三で検査を行った。この組合は同業組合準則に基づく団体であり、津軽五郡米穀商組合がその名称であった。
 明治三十三年(一九〇〇)には、重要物産同業組合法に基づく団体として、弘前地方米穀商同業組合の設立が目指された。この組合は弘前市と中津軽郡域とし、それまで存在した津軽地方米穀商組合から分離することを目指すものである。発起人は、弘前市の大和幾彌、伊藤初太郎、小宮山栄作工藤留吉と堀越村大字取上の葛西清助であった。
 明治十九年設立の津軽五郡米穀商組合と、同三十三年に設立認可を願い出た弘前地方米穀商同業組合には、域内の同業者の加入規定と違約者の処分規定があった。弘前地方米穀商同業組合では、それらの規定は次のようになっている。
第十七条 当組合地内に於て米穀商を営むものは、当組合事務所に其加入の届出をなすへし、但廃業又は他の地に転住するときもまた同し

第五十条 輸出者にして左の二項に該当する者は違約料を徴収す

  一、定款第十二条を犯し、検査を受けすして密かに輸出をしたるものは、二円以上二百円以下の違約料を納めしむ

  二、定款第十六条を犯し、監査を経すして恣に輸出したるものは、一円以上十円以下の違約料を納めしむ

第五十一条 輸出者にして左の行為ありたるときは、其の情状に依り一円以上五十円以下の違約料を徴収す

  一、第十三条に違反して、無検印の米穀を輸出したるもの

  二、第十四条に反き、検査器の使用を拒むもの

  三、第十五条に規定せる検査手数料を七日以内納めさるもの

(資料近・現代1No.四〇一所収)

 設立願は認められ、明治三十三年十一月十一日に弘前市親方町の長久楼で創立総会が開かれた。選任された役員は次のとおりであった
組長  大和幾彌
副組長 加藤幸助
評議員 武田又吉
 〃  木村市蔵
 〃  新谷三吉

 これらの役員については履歴書が付されていた。大和幾彌は六代前の祖が米穀商を開業し、一五〇年間続いているという。また、加藤幸助武田又吉は先代の親が米穀商を開業しており、家督相続している。木村市蔵は四代前の祖父以来米穀商業に従事しているという。新谷三吉士族で、明治十八年(一八八五)に米穀商を開業した。なお、設立総会に出席した米穀商人は一一一人であった。
 役員となった五人は、いずれも津軽地方米穀商組合の役員や同組合の議員の経験者であった。
 移出米の等級は玄米一升中または精米中に籾が何粒混入しているかが重視され、また、子粒の一斉であることや沢が問題とされた。この点につき、弘前地方米穀商同業組合では、津軽地方米穀商組合よりも厳しい規準が設けられた。一等米について見れば、津軽地方米穀商組合が、玄米一升中、籾二〇粒以上混入せざるものであったが、新組合は、一五粒以上混入せざるものとした。これは、新組合の意気込みを示すものである。