このような中で、県は養蚕業の導入、発展に熱心であった。その理由として、第一に寒冷の気候、第二に桑園開発に適する低廉な土地、第三に器械の改良と技術の普及による良質な生糸生産の可能性、第四に病毒の少ない蚕種の強健性が挙げられ、これらのことが栽培に有利とされたのである。
そもそも津軽地域においては藩政時代から養蚕が奨励されていた。特に、天保年間(一八三三~四四)、弘前の武田甚左衛門(たけだじんざえもん)が弘前及び周辺で野桑が繁殖していることに着目し、養蚕・製糸・製綿・機(はた)織りを勧め、武田家では代々この事業を継承、明治期に入り、後継の六代目「金木屋」当主の熊七(くましち)が養蚕の普及と製糸所、絹織物工場を営み、輸出にも取り組んだ。
写真98 製糸工場内風景
また、養蚕業は、明治初期から藩士の授産事業として奨励され、同七年(一八七四)、士族授産に貢献した山野茂樹は、群馬県に赴き、養蚕を研究し蚕種を造った。さらに同年九月、福島県から一万本の桑苗を購入し、養蚕の普及に尽力した。
しかし、津軽地域において、養蚕業の発展は制約されていた。その理由の第一は、養蚕業は大規模、投機的なイメージが強く、一般農家での副業的養蚕や簡易な自家製糸は普及しなかったこと。第二に、藩政時代、弘前の周辺は野桑が繁茂し、桑園地がいたるところに見られたが、りんごの導入とともに次第にりんご園地に変わっていったために、桑園を確保できなかったことが挙げられる。