「教科書事件」と国定教科書の使用

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明治三十三年八月、「再改正小学校令」によって、発音仮名遣いを規定し、尋常小学校において使用する漢字を一二〇〇字以内に制限したことは、教科書の編纂に大影響を与えた。教科書会社はこの規制に適合した教科書を大急ぎで編纂し、各府県の教科書審査会に採択してもらうため猛運動を展開した。
 三十四年一月、松田正久文部大臣は教科書会社の運動を抑えるために、小学校令施行規則の一部を改正して、教科書の不当な売り込みや採択に厳重な罰則を設けた。しかし、教科書会社の売り込みはますます激しくなり、不正はなくならなかった。そのあげく三十五年末に「教科書事件」といわれて、社会の耳目を驚愕させた教育界の不祥事件が起きた。教科書の売り込みと採択に関し、贈収賄の嫌疑で、全国にわたって約二〇〇人の被告を出したのである。二〇〇人の被告の中で罪の確定した者は一六〇人、その中には代議士、県知事、視学官、師範学校長、中学校長、郡視学、小学校長などが混じっていて、「教科書事件」は社会的地位の高い、しかも聖職視されていた教育者の犯罪だけに、明治新教育始まって以来の教育界における大不祥事件となった。
 本県でも教科書事件にかかわって、拘引された者が数人(うち弘前一人)あったが、小学校関係者は一人もなかった。
 教科書事件当時の文部大臣は菊池大麓であったが、菊池はこの事件を巧妙に利用し、かかる不祥事を出さないためにも教科書を国定にすべきだと主張し、閣議及び枢密院を経て、小学校令の一部改正に成功した。すなわち、これまでの小学校教科書は小学校図書審査会を経て知事が採択していたのを、単に「小学校ノ教科用図書ハ文部省ニ於テ著作権ヲ有スルモノタルベシ」と改められ、教科書国定の制度は法的に確定した。
 教科書の中でも、絶対に国定でなくてはならないのが修身、国語読本、日本歴史、地理の四科であったが、菊池文部大臣は三十七年四月、国語書き方、算術、図画の教科書も国定とした。

写真108 第2回国定本「尋常小学読本」巻一
(明治43年)

 国定教科書制度は、当然小学校教育の内容統制になり、それはまた国民の思想統制にもつながった。天皇制教育推進者や国家主義的教育の推進者は、国定教科書の出現を渇望していたが、一部識者の反対もあって国定へ踏み切れずにいた。それが「教科書事件」を突破口に、その可否が充分論議されることなく、大手を振ってまかり通った。国定教科書使用の結果、教授法の形式化や画一化が促進され、個性豊かで創造的な教育実践は入り込む隙がなくなった。その教科内容もあらゆる学科が徳目主義の道徳で結論づけられ、児童のものの認識や考え方の広がりに役立つ教材は少なかった。国定教科書は昭和二十三年(一九四八)に廃止されるまで続いた。