県内中学校の概況

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明治三十四年(一九〇一)、青森市に第三中学校、翌三十五年、西津軽郡木造町に第四中学校が開校した。また、三十四年には私立東奥義塾が弘前市に移管されて弘前市立中学校東奥義塾となったので、青森県内には公立中学校が五校となった。
 教科内容に変わりはなかったが、第一中学校や第二中学校などの歴史ある学校には、独自の校風が確立していて、それぞれ特色のある教育が行われた。ことに両校とも校友会の活動がめざましく、文化部と運動部に大別されていたが、文化部の中心は編集、講演の二部で、校友会会誌の発行や演説討論が盛んになされた。運動部では剣道柔道が古く、舶来のスポーツでは野球が最も早く採り入れられ、ほかに、庭球なども行われていた。初めは校内活動が主であったが、それが生徒たちの愛校心を深め、他校生徒の交流につながって盛り上がりをみせるようになった。

写真109 明治時代の中学校野球

 第一中学校では、三十五年七月、県内各中学校に先駆けて校旗を制定した。これは青森師範学校に次ぐもので、同年七月十九日に校旗樹立式を挙行している。校旗は白地に赤の旭を染め出した軍艦旗に似た図柄で、中央紅の部分に帽章の「中」の字を白く抜いたもので、東京高島屋に発注している。