教育とキリスト教の問題

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明治二十六年(一八九三)、弘前女学校は学校の充実を図るため規則を改正して認可を申請したが、その一部は認可にならなかった。「女子ノ徳性ヲ発達セシメン為付加科トシテ基督教ノ聖教ヲ授ク」という一項がそれであり、規則改正に当たって県は削除すべきものとして但し書をつけた。キリスト教について教えるのは、弘前女学校にとっては重要なことであり撤回できないと再三申し入れたが、許可は下りなかった。
 教育と宗教の分離は、明治五年の学制ではその方針が明確にされていたが、翌年に突如として規定が廃止されたので、その関係はあいまいなものとなっていたのである。教育と宗教の分離が政府の方針として明確にされるのは三十二年になってからである。しかし、弘前女学校では、実質的には聖書の講義や礼拝が行われているところをみると、かなり積極的に宗教教育が行われていたことがわかる
 元大工町が手狭になったので、坂本町に新築移転したのは明治三十四年(一九〇一)二月である。この日は折からの大吹雪であったが、職員生徒は勇躍、移転作業に従ったという。
 弘前女学校は、キリスト教主義を学校教育の方針としたが、そのため政府文部省の教育宗教分離の方針とに軋轢(あつれき)が生じ、学校経営にさまざまな困難を感じたことも事実であった。学校教育を通じてキリスト教信者を増やすことに情熱を傾けていたこともあり、それがキリスト教に反感を抱く者の妨害となって、学校の経営を困難にさせた原因ともなったが、同時にその宗教が背景となって、弘前女学校の輝かしい歴史が長く続くのである。

写真111 聖書の授業(大正13年)