女学生の岩木山登山

435 ~ 437 / 689ページ
弘前女学校では、明治四十二年五月、宿泊を伴う最初の修学旅行を行った。行き先は下北郡大湊であった。次いで、同年八月、当時女人禁制とされていた岩木山登山の計画が発表された。
 その内容と反響を報道した『東奥日報』は次のように伝えている。
 私立弘前女学校においては夏季休暇利用の修学旅行として岩木山登山を計画したるが、その目的、準備などすこぶるハイカラにして当地の老人をあっとばかりに仰天せしめたり。その規定大要左のごとし。
▲目的…地勢、地文、動植物、鉱物、気象、森林、水源を視察研究すること▲神の栄を讃美すること。

▲資格…身体健康にして登山に堪える生徒なること。生徒の母、姉及び協会員は加入するを得ること。

▲日程…八月十二日午後三時学校に集まり百沢に至り一泊▲十三日午前一時登山。山頂にて祈禱。下山は山蔭よりして嶽温泉に一泊▲十四日午前七時帰途に就き岩木橋にて解散。

▲服装及び携帯品…服装は筒袖に脚絆をつけて草鞋(わらじ)がけのこと。ただし百沢に一泊して物品を預けて行くにより同村までは普通の服装にてもよろし▲携帯品は讃美歌(小形本)県内地図、手帳、小刀、鉛筆、半紙、楊枝(ようじ)、とき櫛、吸筒、望遠鏡、磁針、手拭、風呂敷、草鞋二足、防寒用シャツ、宝丹(ほうたん)(解毒剤)、日覆帽子。

なお出発当日の食料としては、茹玉子(ゆでたまご)、焼鯣(するめ)、牛肉の罐詰、梅干等なりという。
茹玉子の牛肉のと、さすがに耶蘇(ヤソ)の女学校だけありて、魂消(たまげ)たものだなどと評判とりどり。
(『東奥日報』明治四十二年八月九日付より)

 これによると、二泊三日の予定で岩木山登山をすることになっている。記事の末尾の耶蘇とはイエス・キリストのことを指しており、ミッション系の弘前女学校をこう呼んだのである。なお、予定していた十三日はあいにくの雨降りのため、十六日に延期して決行された。
 岩木山は永い間、女人禁制の霊山とされており、明治六年(一八七三)七月に兼平亀綾が初登頂を果たすものの、まだ女性が登るということは無謀ともされていた時代である。『弘前女学校歴史』は「八月十六日 岩木登山を試む。是れ恐くは女子団体にして登山したる者の先駆者なるべし。由来当地にては岩木山を郷国の大鎮守神として尊敬すること寧ろ崇拝すること甚しく、古より女人禁制の霊山として若し白昼公然登山する女人あれば、必ず本人に或はその家族に、又は其の町村内に何等かの怪異又はお咎めのあるものとなし、決して登山するものなかりければ、本校は其の謂れなき迷信を打破せんと欲し、旁(かたわら)教育的目的を以て敢てその登山を計画し」たと述べている。生徒を引率して登山するには相当の勇気を必要としたに違いないが、キリスト教主義の弘前女学校らしい快挙というべきであろう。