しかし、日ごろの対立も、次元の高い問題については、感情的な対立をなげうって協同して対処することもあった。明治二十一年のいわゆる無神経事件の際は、各道場が一丸となって時の鍋島県知事の排斥運動に立ち上がっており、日清戦争のときには、国民の間には国家意識が一段と盛り上がって、「弘前市義勇団」結成の中心となって従軍願いを出す動きも見せている。
道場の対立が最も派手に繰り広げられたのは、夏の「ねぷた喧嘩(げんか)」であった。それが小競り合い程度のものであれば、警察当局も大目に見ていたが、ときには流血騒ぎに発展したり、ついには死傷者が出るほどエスカレートしたりするに及んでは黙視するわけにもいかなかった。宵宮とか人出の多い祭りにはつきものとなっていたが、しだいに気勢が上がると、やじ馬まで巻き込んで、大変な騒動になることもあった。
ねぷた喧嘩とは、ねぷたがたまたま路上で鉢合わせしたりすると、投石に始まり肉弾戦に及ぶものであった。ときには棍棒や木刀、日本刀などの凶器を持ち出していがみ合い、死者を出すこともあり、しかも路上でぶつかり合うだけでなく、仕返しのために敵方を襲撃するなどの暴力沙汰が繰り返されたのである。
『新聞記事に見る青森県日記百年史』(東奥日報社、一九七八年)は、明治三十四年(一九〇一)六月二十四日に起きた宵宮の事件の詳細を載せているので、少し長いが引用する。
宵宮帰りの乱闘 弘前 明治館派と陽明館派が
弘前における青年の闘争は十数年前までは常にありがちなりしも近年に至りてはこの蛮風全く跡を絶つに至りしが、近ごろまたまた学生間にこの蛮行を演ずるものありとの風説あり、世間の注意するところとなりおりしに、今や遂に殺傷の惨状を見るに至りしは、実に嘆ずべきの至りなれ。
事は去る二十四日午後十一時ごろなりき。本県第一中学校第五年生弘前市大字山下町、都谷森芳雄(二十二年)同市田代町、斎藤渡(十九年、巡査斎藤秀傑氏の実弟)および同市富田新町、木村徳治、南郡田舎館村大字八反田当時品川町寄宿阿保徳弥らには、同市和徳町なる稲荷神社の宵宮より帰り来り代官町よりして植田町の小路の所に至るや、ここに待ち伏せおりたる三十数名の一団現れ出でて、ふいに都谷森らを襲撃したるより、暫時ここに双方の間に争いは始まりしも大勢に無勢、特に一方は十分の用意し来りしものとみえ、凶器を振るうて打ってかかりしより都谷森、斎藤の両名は奮戦したる上にて数カ所に重傷を負いその場に倒れ、木村、阿保の二名も軽傷を負うに至りたり。
この物音を聞きつけ警官は早くも駈けつけしが、この時すでに一方はここを切り揚げて逃げ去りたるが、後にて無残なる被害者のみそこにうごめきありたるにより、さてはとその付近を捜索するに遙かに和徳町の方を指して逃走するものあり。警官は直ぐ跡追いかけしが、コハかなわずとや思いけん一尺八寸ばかりの黒塗り仕込み大和杖をば、同町千葉金作方の堰の所に投げ捨てて逃げ去りたるが、なおも追跡したれども遂にその行方を見失いたり。
今被害者の傷なりというを聞くに都谷森、斎藤ともに重傷なれば両名とも出血甚だしく、都谷森は若山医師の応急手術を受け、それより直ちに博愛病院に入院し手術を受けたるも、その効なく一昨朝六時ごろ遂に死去したり。斎藤もなかなか重傷にて生命のほどいかばかりかとのことなり。(中略)
かつて下町なる明治館の学生が暗夜門外に誘い出されふいに殴打されたるもの数名あり明治館派の学生は大いに警戒を加え、かつその手段の卑劣なるを憤り、その復讐をなさんとてひそかに襲撃者を探索したるに、嫌疑はかねてより衝突しおれる陽明館派の学生らにかかりしかば、遂にこのほども両派の学生は某所において衝突し、陽明館派のものは少数なりしより大いに辱められたるより、陽明館派にてもまた大いにこれを憤り復讐策を講じ、翌日明治館派の大井某ほか一名を某所に要撃して重傷を負わしめたるよしにて、これがため明治館派の学生の憤激一方ならず、遂に再び昨夜稲荷の宵宮を機として、この挙に及びたるものにあらずやという。
弘前における青年の闘争は十数年前までは常にありがちなりしも近年に至りてはこの蛮風全く跡を絶つに至りしが、近ごろまたまた学生間にこの蛮行を演ずるものありとの風説あり、世間の注意するところとなりおりしに、今や遂に殺傷の惨状を見るに至りしは、実に嘆ずべきの至りなれ。
事は去る二十四日午後十一時ごろなりき。本県第一中学校第五年生弘前市大字山下町、都谷森芳雄(二十二年)同市田代町、斎藤渡(十九年、巡査斎藤秀傑氏の実弟)および同市富田新町、木村徳治、南郡田舎館村大字八反田当時品川町寄宿阿保徳弥らには、同市和徳町なる稲荷神社の宵宮より帰り来り代官町よりして植田町の小路の所に至るや、ここに待ち伏せおりたる三十数名の一団現れ出でて、ふいに都谷森らを襲撃したるより、暫時ここに双方の間に争いは始まりしも大勢に無勢、特に一方は十分の用意し来りしものとみえ、凶器を振るうて打ってかかりしより都谷森、斎藤の両名は奮戦したる上にて数カ所に重傷を負いその場に倒れ、木村、阿保の二名も軽傷を負うに至りたり。
この物音を聞きつけ警官は早くも駈けつけしが、この時すでに一方はここを切り揚げて逃げ去りたるが、後にて無残なる被害者のみそこにうごめきありたるにより、さてはとその付近を捜索するに遙かに和徳町の方を指して逃走するものあり。警官は直ぐ跡追いかけしが、コハかなわずとや思いけん一尺八寸ばかりの黒塗り仕込み大和杖をば、同町千葉金作方の堰の所に投げ捨てて逃げ去りたるが、なおも追跡したれども遂にその行方を見失いたり。
今被害者の傷なりというを聞くに都谷森、斎藤ともに重傷なれば両名とも出血甚だしく、都谷森は若山医師の応急手術を受け、それより直ちに博愛病院に入院し手術を受けたるも、その効なく一昨朝六時ごろ遂に死去したり。斎藤もなかなか重傷にて生命のほどいかばかりかとのことなり。(中略)
かつて下町なる明治館の学生が暗夜門外に誘い出されふいに殴打されたるもの数名あり明治館派の学生は大いに警戒を加え、かつその手段の卑劣なるを憤り、その復讐をなさんとてひそかに襲撃者を探索したるに、嫌疑はかねてより衝突しおれる陽明館派の学生らにかかりしかば、遂にこのほども両派の学生は某所において衝突し、陽明館派のものは少数なりしより大いに辱められたるより、陽明館派にてもまた大いにこれを憤り復讐策を講じ、翌日明治館派の大井某ほか一名を某所に要撃して重傷を負わしめたるよしにて、これがため明治館派の学生の憤激一方ならず、遂に再び昨夜稲荷の宵宮を機として、この挙に及びたるものにあらずやという。
写真117 竹森節堂『ねぷた喧嘩絵図』
この乱闘では血気盛んな貴重な生命まで失われている。昭和三十年代初めごろまでは、扇ねぷたの側面に「石打無用」などと大書されていたが、これはかつてのねぷた喧嘩の名残である。