(春)春雨のとりちらしたる写真かな
朝風や日曜の小村凧多し
乙鳥や自転車乗りは右に行
(夏)電話して花に客呼ぶ牡丹咲く
小らんぷや蚊帳の中にて写し物
新橋に汽車着せんとして夕立す
(秋)とんねるを出れば芝の果もなし
駄菓子屋の渋柿もあり燐寸もあり
尽く菊切りにけり天長節
(冬)公園や落葉の中の体重機
甲板や函館近き吹雪かな
寒月や避雷柱の針の上
朝風や日曜の小村凧多し
乙鳥や自転車乗りは右に行
(夏)電話して花に客呼ぶ牡丹咲く
小らんぷや蚊帳の中にて写し物
新橋に汽車着せんとして夕立す
(秋)とんねるを出れば芝の果もなし
駄菓子屋の渋柿もあり燐寸もあり
尽く菊切りにけり天長節
(冬)公園や落葉の中の体重機
甲板や函館近き吹雪かな
寒月や避雷柱の針の上
(『東奥日報』明治三十年十月二十日付)
新事物の先端を行く自転車の弘前における出現については、まず東奥義塾の外人教師が持ち込み、青森や仙台まで大旅行をしているのがその最初であるが、その後、自転車の快速と実用性が人々に喜ばれてたちまち普及した。三十年代に下土手町に自転車業を始めた村山兎烏(めんう)堂は、美人で評判の細君に自転車を飛ばさせ、昔気質(かたぎ)の人々に開いた口がふさがらない思いをさせた。自転車の普及につれて、軍隊の後援もあって自転車競争という新スポーツが現れた。これまで祭りの呼び物であった競馬に代わって観衆の人気を集め、同時に自転車の普及を一層促進させる役割をも果たすことになった。
二十七年十二月の青森-弘前間の鉄道開通は、何といっても後年の電灯とともに、近代文明の恩恵をあまねく人々に実感させた点で、これに勝るものはなかった。汽車は、時間と距離を短縮したことで社会生活に大きな変化をもたらした。「午后一時の汽車に乗り、三時に帰弘。車の中は甚だ安穏にて、迅速なるこという斗(ばか)りなし」(『斎藤甚助日記』明治二十八年一月十八日)とあるように、これまで一日がかりであった青森までは、わずか一時間あまりで難なく到着することができた。
開通当時の停車場通りは「岡蒸気」の見物人の群れでにぎわった。発車前五分間は、駅夫が駅前で鈴を鳴らし続けたが、これは代官町あたりまで聞こえた。汽車に乗っても、前部は衝突の危険があるといって、客が後部にばかり乗りたがったという珍談もあながち嘘ではなかったのである。
三十三年末ごろからは青年たちの写真熱が盛んになって、いたるところの風景地には暗箱を小脇に抱えてパチパチやる連中が増えてきた。町の写真館も、師団設置以来軍人を顧客とする新商売として目立って増えた。本町の矢川友弥・神忍、瓦ヶ町小西吉十郎、山道町斎藤篤一などが三十年代の写真館を担った。矢川では四十二年三月から夜間撮影を始めた。「閃光写真とて、昼間の写真と毫も変ることなし云々」と宣伝している。
明治の末に双眼写真というものが東京から入ってきた。片手で持つ小型のもので、前方の枠に風景写真を立て、手前の眼鏡からのぞくと、あたかも立体的に見えるという仕掛けであった。東京や各地の名勝写真が主で、その中に「弘前市 山形氏の庭園」という写真もあった。日本橋の村上峰月が本邦の発明者とうたわれているが、これは外国のステレオスコープの模造であった。
蓄音機は、三十三年に東京から下土手町の金九(かねく)本店と、村山兎烏堂に入ったのが初めであった。毎晩のように人々が店に集まっては、カッポレ・都々逸・端唄などをかけて、これが新橋の芸者何子の声などと、二百里先の東京通を振り回す者もあった。当時の価格は譜付きで百円ということであったが、このときはまだ蝋管蓄音機で四十年ごろから平円盤のものが普及するようになった。
時計は、旧藩の御時計師九戸忠兵衛の店のほかに、三十年代には仙台の三原時計店の支店ができ、その後下土手町に自転車と時計貴金属商の村山精造(兎烏堂)、蓬莱橋の西には成田軍三郎等が店を出した。各時計店とも、看板に出した店先の大時計がよく遅れるのでも有名であった。