八月二十三日、日本は日英同盟の関係からドイツに宣戦布告し、第一次世界大戦に参戦した。日本は中国や南洋諸島のドイツ権益を奪取し、自らの権益拡大に努めた。大戦自体は結果的に連合国の圧倒的な勢力により、戦闘的にはドイツの降伏を招いて終結した。しかしロシアに社会主義革命が起こり、革命干渉のためにシベリア出兵が連合国によって実施されるなど、世界全体に多大な衝撃と変化を及ぼしたのである。
大戦は弘前市にも多大な影響を与えた。第八師団を抱える軍都弘前市にとって、直接軍隊が出征しなくても、その影響は大きかった。日本が参戦している以上、全国各地の師団が戦闘準備をするのは当然だった。陸軍大演習の実施もその一つである。大戦二年目の大正四年、弘前市近郊で陸軍大演習が開催された。陸軍は各地で大演習を開催し、軍事作戦上の対策を練りつつも、各地の人々に軍事思想を普及させようとしてきた。
写真156 弘前での陸軍大演習
大正四年(一九一五)の大演習も同様だった。前回の大演習は明治天皇の臨席を想定して、会場が皇居(当時は宮城と呼ばれていた)に近い埼玉県の川越で行われた。明治天皇の病状が悪化していたため遠方での大演習が控えられていたのである。明治天皇の後を承(う)けて即位したばかりの大正天皇にとって、弘前市への大演習は初めての臨席となった。今回の大演習は、弘前市民はもちろん、政府や陸軍当局にとっても重要な意義をもっていたのである。
なお、本節に関する詳細については、『青森県史資料編近現代3「大国」と「東北」の中の青森県』(青森県、二〇〇四年)の、第三章「対外進出と軍事問題」の資料と解説(荒井悦郎氏執筆担当)を参照されたい。