軍縮と歩兵第五二連隊の廃止

576 ~ 577 / 689ページ
大正七年(一九一八)十一月、アメリカ大統領ウィルソンの提案した一四ヵ条の講和条件をドイツが受け入れることで大戦は終結した。世界初の総力戦を戦った各国の間では、国内の消耗が激しく軍縮の気運が高まった。軍縮路線は大正八年(一九一九)六月二十八日、講和会議であるヴェルサイユ条約の締結に始まった。翌年の一月十日にはウィルソンの提案によって国際連盟が結成された。大正十年(一九二一)十一月十二日には、具体的な軍艦保有量の縮小を決定したワシントン会議が開催された。こうした世界の趨勢は日本にも波及し、軍都弘前市にも直接的な影響を及ぼした。
 ワシントン会議は軍艦保有量の縮小が求められた会議であり、海軍に対する軍縮であった。こうした世論の流れは当然陸軍に対しても向けられた。大正十一年八月、加藤友三郎内閣の山梨半造陸軍大臣は、約五個師団分に相当する施設と人員・軍馬の縮小を行った。当然陸軍部内では批判が上がった。だが大正十二年九月一日、関東大震災が帝都を襲い、首都の機能が麻痺し、復興のために日本の財政は危機に陥った。再び陸軍の軍縮を要望する世論が高まった。
 加藤高明内閣の宇垣一成陸軍大臣は、四個師団を廃止する思い切った軍縮を実行した。多数の将校が予備役に編入され、施設・人馬の削減は陸軍内に甚大な影響を与えた。だが宇垣軍縮の真の狙いは軍縮自体にあったのではない。師団・部隊などの廃止や人員整理で浮いた予算を、軍の近代化に振り分け、総力戦体制を構築するための政策だったのである。宇垣軍縮による実質的な軍備の近代化は、第八師団管下にも確実に反映した。大正十四年(一九二五)の第八師団連合演習では飛行機や戦車、軍用犬、携帯無線電話など、新しい武器、兵器が用いられている。けれども宇垣陸相自体は、この軍縮政策のために後年、陸軍の後進将校から批判を受けることになる。
 山梨・宇垣両軍縮の影響で、大正十四年五月一日、軍都弘前にあった歩兵第五二連隊が解散することになった。軍都弘前市には歩兵第三一連隊もあり、同一の市に二つの連隊がある以上、軍縮のあおりは避けられなかった。市の財政をなげうち、市民総出で第八師団を誘致した弘前市民にとって、第五二連隊の廃止はたいへんな痛手だった。軍都の市民も、日本だけでなく、世界的な軍縮世論には勝てなかったのである。

写真165 歩兵第52連隊