ワシントン会議は軍艦保有量の縮小が求められた会議であり、海軍に対する軍縮であった。こうした世論の流れは当然陸軍に対しても向けられた。大正十一年八月、加藤友三郎内閣の山梨半造陸軍大臣は、約五個師団分に相当する施設と人員・軍馬の縮小を行った。当然陸軍部内では批判が上がった。だが大正十二年九月一日、関東大震災が帝都を襲い、首都の機能が麻痺し、復興のために日本の財政は危機に陥った。再び陸軍の軍縮を要望する世論が高まった。
加藤高明内閣の宇垣一成陸軍大臣は、四個師団を廃止する思い切った軍縮を実行した。多数の将校が予備役に編入され、施設・人馬の削減は陸軍内に甚大な影響を与えた。だが宇垣軍縮の真の狙いは軍縮自体にあったのではない。師団・部隊などの廃止や人員整理で浮いた予算を、軍の近代化に振り分け、総力戦体制を構築するための政策だったのである。宇垣軍縮による実質的な軍備の近代化は、第八師団管下にも確実に反映した。大正十四年(一九二五)の第八師団連合演習では飛行機や戦車、軍用犬、携帯無線電話など、新しい武器、兵器が用いられている。けれども宇垣陸相自体は、この軍縮政策のために後年、陸軍の後進将校から批判を受けることになる。
山梨・宇垣両軍縮の影響で、大正十四年五月一日、軍都弘前にあった歩兵第五二連隊が解散することになった。軍都弘前市には歩兵第三一連隊もあり、同一の市に二つの連隊がある以上、軍縮のあおりは避けられなかった。市の財政をなげうち、市民総出で第八師団を誘致した弘前市民にとって、第五二連隊の廃止はたいへんな痛手だった。軍都の市民も、日本だけでなく、世界的な軍縮世論には勝てなかったのである。
写真165 歩兵第52連隊