大正三年(一九一四)七月に勃発した第一次世界大戦は、各国経済を混乱させたが、同四年になると海外市場は落ち着きを取り戻し、わが国に対し、戦争にともなう軍需が増大していくことになった。つまり、戦地がヨーロッパに集中したことで、軍需品の需要がアメリカとともに日本へ集中し、また、ヨーロッパから工業品を輸入していた東南アジアの国々は、日本へ代用品を求めるようになったのである。そのため、わが国の輸出は拡大し、空前の好景気が到来した。そして、大戦景気により経済成長が顕著になるとともに、金融機関に対する資金需要が増大していった。
金融機関が資本力を充実させて営業範囲を拡大していくと、政府はその社会的責任の増大に対して、その整備や取り締まりが必要であると判断し、大正四年に貯蓄銀行条例の改正・無尽業法の制定、大正五年になると銀行条例の改正と矢継ぎ早に金融関係法規の制定・改正に取り組んでいった。
①貯蓄銀行条例の改正 銀行類似会社や弱小銀行の中には、積立預金や据置貯金の名称で預金の吸収を図るものがあり、その弊害が著しくなってきたことが条例改正につながった。改正の大きな点は、業務分野の拡大と認可権を持つ大蔵大臣の権限拡大であった。まず、業務分野の拡大であるが、貯蓄銀行の業務に新たに定期積金と据置貯金を加え、貯蓄銀行以外のものがこの業務を営むことを禁止した。次に、大蔵大臣の権限拡大であるが、業務の種類や方法の変更および代理店の設置は大臣の認可事項とし、その他事業の停止、役員の改選命令、営業認可の取り消しなどの権限を大臣に認めさせた。条例改正は、貯蓄銀行に新規預金業務を認め、いかがわしい金融機関をこの条例の対象として規制し、また、貯蓄銀行の監督強化を目的とするものであった。
②無尽業法の制定 無尽会社は、中小商工業者や個人に利用された金融機関であり、明治末から急激な成長を遂げた。明治三十九年から大正二年までに設立された無尽会社は、一一五一社あったが、そのうち明治四十五年、大正二年の二年間に六九九社とその過半数が設立された。このような急激な増加により、さまざまな弊害が生じてきたため、法規を制定して規制することが必要になった。その内容は、「無尽」の定義の明確化(「一定口数と給付金額を定めて定期に掛金を払い込ませ、一口毎に抽籤・入札・その他類似の方法により金銭または有価証券の給付をなすもの」と定義された。)、資本金額の制限(五万円以上)、「無尽」の商号を使用すること、営業には監督官庁である大蔵省から免許を受けること、営業地域の制限、兼業の禁止などであった。
③銀行条例の改正 第一次世界大戦中の産業の発達とともに普通銀行の資金量も増大すること、また、弱小銀行の整理を考慮して条例改正が図られた。改正の大きな点は、大蔵大臣の監督権限の強化にあった。銀行が他の事業を兼営し、また、支店を開設する場合、もしくは銀行事業を営む会社が合併する場合には大蔵大臣から認可を受けなければならなくなった。さらに、銀行の業務や財産の状況により必要な場合は、業務の停止を命令できるようになった。条例の改正は銀行の設立を慎重にするとともに、従来、乱立していた弱小銀行を整理し、その健全化を図ることを目的とするものであった(朝倉孝吉『新編日本金融史』日本経済評論社、一九八八年)。