大正二年(一九一三)、県立弘前中学校は創立三十周年を迎えた。記念式典の式辞で粟野伝之助校長は「卒業生をだすこと千二百名に近く、現在生徒また常に六百を下らず」と述べ、続けて「東北の人士身体壮健性質特に勤倹尚武の美風をもって称せらるる。しかるに今や時勢のおもむくところ、人情次第に軽薄に流れ、風俗日々浮華に陥る。この悪風を排逐し、ますます質実剛健の美風を養成し、心育に体育に各遺憾なきを期す」と述べているが、校風発揚運動と関連して「質実剛健」が謳(うた)い上げられている。この弘中のバックボーンともなった気風が、後世まで語り継がれることになったのである。
大正四年には、校舎の大改築と校地の拡張を行い、慈雲院と西隣の報恩寺の一部が加えられることになった。改築に当たっては、廃校になった木造分校の旧校舎が解体され移築されている。
写真184 校舎改築後の県立弘前中学校
(大正4年)
大正七年(一九一八)十一月になって、第一次世界大戦は終結した。大戦が日本にもたらしたものはほとんど経済的なものであったが、欧米諸国におけるデモクラシーの進展は、当然わが国にも波及してきたが、その情勢に対応するだけの教育が必要となった。
それと中等学校への進学者が激増したことである。弘中では七〇〇人にしたばかりであったのに、九年には八〇〇人の定員となった。十一年には廃校になっていた東奥義塾、十五年には木造中学校や野辺地中学校までが相次いで開校したことでもわかる。ちなみに、十年三月、この年に創立された官立弘前高等学校の入学試験が実施され、弘中も試験場となった。弘中からの合格者は二八人であった。全国から集まる志願者に伍して受験戦争にうち克(か)つためには、弘中でも受験準備が必要であった。
大正十二年の師走の二十日、第二学期末試験の最中に、寄宿舎の南寮から出火して一棟を焼いて鎮火した。当時の寮は南・中・北の三棟があって七〇人を収容していたが、鏡ケ丘(弘中の別称。南塘・南溜池の古称鏡ヶ池を眺望する地にあるところから)に移ってから最初の火災であった。
十四年四月には、生徒数は各学年二〇〇人、全五学年で一〇〇〇人となった。この年に軍事教練が正課となり、市内中学校には現役の陸軍将校が配属されている。
写真185 弘前中学校講演部
(大正15年)
大正後期はまた、文部省督学官、視学委員、県視学などによる学事視察が目立ったときでもある。大戦後の中等学校のめざましい増設に伴い、文部省が指導監督を強化したためである。
大正十五年、それまでの椿校長が新設された野辺地中学校の初代校長に転出し、代わって葛原運次郎が第一四代校長に抜擢された。葛原は南郡田舎館村出身で、郷土が生んだ校長として大きな期待で迎えられた。