大正後期は、スポーツの普及発展の時期でもあった。弘中ではすでに明治のころから柔道・剣道・野球・庭球などの運動部が発足し、東奥義塾・青森中学・青森師範・大館中学などと対抗試合を行ってきたが、なかでも青中とのライバル意識は強く、両校の間で毎年のように熱戦や名勝負が繰り広げられ、若人の血を沸かせた。
当時の弘中対青中の種目別の対戦成績は、剣道が七対三、柔道が一〇対四、野球が八対四、庭球だけは八対八と引き分けている。県下の覇者であった弘中の貫録を示すものであった。なお、種目によって回数が違うのは部によって対戦しない年もあったからであるが、大正十三年、剣道の試合で審判の判定を巡って両校が対立し、それが原因で他の種目も対抗試合はついに中止されたままになった。
弘中の運動部が、大正時代に最も輝かしい成績を残したのは柔道部である。大正六年七月の県下中等学校武道大会で優勝、さらに十三年の二高(現東北大学)主催の東北大会で準決勝、弘高主催の北日本大会では決勝まで進出したが、惜しくも優勝を逸した。しかし翌十四年、北日本大会では工藤久吉・工藤敏一らの活躍で念願の優勝を勝ちとることができた。剣道は十三、十四年とも北日本大会で準決勝で敗退。庭球も北日本大会では決勝まで進出している。
これに比べて、スキー・陸上競技部は大正十三年に独立した新興のスポーツであったが、二年後の大鰐町で開かれた大正十五年の全日本スキー選手権大会県予選では優勝しているし、陸上競技部もまた十三年の極東大会兼東北予選北日本選手権大会では好成績をあげている。さらにその余勢をかって、弘高主催の一六〇〇メートルリレーも制覇している。このとき活躍した選手が井沼清七である。彼は早稲田大学に進み、わが国屈指のスプリンターに成長して、第九回のアムステルダム・オリンピック(一九二八年開催)に日本代表の選手として出場した、弘中出身にして青森県出身のオリンピック選手第一号である。