和徳村との合併問題

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弘前市と和徳村合併問題は、奥羽線弘前・青森間の開通に伴う弘前駅の設置に端を発していた。弘前市は城下町だったため、城下を中心に街が形成されており、その中心は弘前城周辺、とくに土手町界隈だった。市役所や警察署、第五十九銀行など、主要な官公庁施設も城の近くにあった。弘前駅が開業したことにより、青森・弘前間の交通路が確保されるようになれば、当然駅周辺にも市街地が形成され、人口も集まるようになる。しかし弘前駅和徳村にある以上、弘前市中心部とは一定の距離があり、行政区画の違いなどもあって、市民にとっては不都合な問題も生じてきていたのである。合併問題は常に「部落的観念」による対立・紛争を生じ、合併交渉における利害の相違から新たな課題も発生する。そのため弘前市と和徳村合併も、なかなか進捗せず、郡制廃止となっても交渉が具体化することはなかった。

写真3 昭和初期の弘前駅


写真4 昭和初期の土手町

 和徳村合併問題が具体的に再開したのは、昭和九年(一九三四)六月二十一日に石郷岡文吉市長が当選してからである。市長は同年十月二十三日「郡市合併に関する卑見」と題する意見書を加藤喜久衛和徳村村長ほか、市会議員・村会議員に送付した。市長は弘前駅と市の中心部を結ぶ道路の開通が必要であり、建設費用や市街地形成の観点からも合併が必要だと強調した。駅周辺部の市街地化に伴い人口が増え、学生や児童の収容にも、教育・学校設備の不足する和徳村だけではまかないきれず、弘前市が援助してきた経緯からも、この際合併が必要だというのである。市長は合併を部分的にでも開始すべきと見て、まずは弘前駅周辺の合併を考慮した。市長は駅周辺を分割併合する案を第一案件として提示し、第二案件として大字和徳・堅田・高崎を合併する案を用意していた。
 合併に関する和徳村民の意向は賛否両論、実にさまざまな意見が噴出した。そのため市長は第一案件である駅周辺の合併を、半ば妥協案として提示した。弘前市の意向が駅と駅周辺の経済的利点を吸収することにあったのは明白であろう。
 これに対して弘前和徳町東部協会は、市長の提示した第一案に反対し、三大字の合併を含む第二案を主張していた。要するに和徳村の弘前市への合併を容認するグループといえよう。だが村長が大字和徳・堅田・高崎三区長へ合併に関する住民の意向を調査させたところ、大字和徳の住民は弘前市への合併をおおかた希望しているが、堅田・高崎の住民は大部分が合併反対であった。高崎では各戸別に合併の賛否を調査したところ、合併希望者は十三、四人にすぎず、あとは合併の意思がなかったという。反対理由はさまざまにあったが、高崎区長の花田勝太郎は「和徳村の村名は古来より村名なるを以て歴史上永続せんとす」との理由があったことを村長宛に報告している。和徳村自体は古い歴史があり、村民のプライドも相当に高かったのだろう。
 けれども合併をめぐって紛糾し続けた和徳村合併問題も、昭和十年(一九三五)十二月二十五日に至って、ようやく結論を見た。和徳村大字和徳の全部と、大字高崎の字岩井、大字堅田の字富田が弘前市に編入されることになった。十二月二十八日には弘前市議会も合併案を可決した。昭和十一年一月一日を期して、紛糾を続けた和徳村との合併問題は一応の終結を見ることになったのである。