軍人援護政策と女性の位置づけ

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日中戦争の泥沼化は当然、多数の戦死傷者を生み出し、生活の支柱となる存在を失う家庭を増加させた。近代日本国家は男性のみに選挙権を与え、生計維持者としての存在を女性に期待しなかった。そのため生計維持者である男性を失った女性や子供・老人たちは、生活基盤を奪われることになり、彼らは政府や軍に対する批判を強める恐れがあった。政府が遺家族対策を重視したゆえんである。
 そのため県でも出征軍人を出した家族を援護するため、女性にも職業指導を行うよう市町村長宛に要請している。通達文を見ると「従来吾国ノ婦人ハ職業的知識的技能ニ乏シク経済的ニ常ニ依存生活ヲ為シ居ルタメ、一旦生計維持者ヲ失フ時忽ニシテ生活ノ方途ナク子女ヲ擁シテ悲嘆ニクルル者多キニ鑑ミ」て実施したという。女性にも職業意識をもたせ、職業現場へ進出させる機会を与えようとしたのである。
 この他にも「軍人遺家族ニ対シ職業補導ヲ為スハ時局ニ於ケル緊切ナル要務」との観点から、青森県社会事業協会の主催で「軍人家族婦女授産施設要項」が作成された。青森、弘前、八戸三市や隣接地で開催し、教育科目により一期三ヵ月から一ヵ年とするが、女性が授産事業を習熟できるよう何期間繰り返してもよいとしている。女性に対する職業訓練が徹底されたことは画期的といえよう。
 職業授産のための具体的な教育科目は一二項目あった。そのうち産婆、看護婦は多産政策に合致するものであり、洋裁、和服、日本刺繍・ミシン刺繍、手芸は、当時の女性教育の主要科目が裁縫教育にあったことを考えると首肯できる。簿記珠算、タイプ、小学校教員検定準備などの事務作業も興味深い。そのほか、簡易な津軽塗蔓細工、竹細工は青森県独特の仕事でもあり、凶作農民の救済策として奨励された副業事業だった。いずれも当時の女性に普通に与えられた環境を維持した政策といえるが、当時女性に期待され女性が担うべき仕事が何だったのかが理解できよう。また津軽塗蔓細工など、青森県の風土を象徴するような作業が組み込まれていることにも注目したい(資料近・現代2No.九九参照)。
 すでに女性が銃後の主役であったことは定説となっている。男性が兵隊として出征し、それを背後で支えるのが女性というわけだが、女性は単に軍人である男性を支えるだけではなく、勤労動員を通じて男性同様、ないし男性の代替として位置づけられたことにも注意したい。一方で母性を強調され、産めよ増やせよに代表されるように、子供を産み育てることを期待されながら、男性同様に職場に出て働くことも期待されていたことは重要である。当時の男性は若い年齢層を中心に戦場へ駆り出され、戦場で戦うことが理想の男性像と見なされていた。その意味では男性の生きる選択肢は狭いものだった。他方、女性の場合は、たとえそれが出征する男性の代わりだったとはいえ、勤労奉仕に従事したり、職業婦人として活躍したり、銃後社会で隣組活動に励むなど、多様な選択肢のなかで生きることができたのである。もちろん勤労奉仕などは本人の自由意思よりも、強制的な意味合いが強かった。しかし総動員政策に見る男女の相違や共通点から、新たな人間像を描き出すことは、今後有意義な課題となるに違いない。

写真25 女子青年団員による勤労奉仕