米穀の統制と自作農創設

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昭和十二年(一九三七)、日中戦争開始以降、特に同十四年の朝鮮の干ばつによる凶作を画期として、米政策の目標は過剰の解消から生産量の維持・増産へと転換した・昭和十六年(一九四一)の青森は六年ぶりの冷害・凶作であった。このために県は食糧の増産目標を定め、郡別、市町村別に割り当てたが、労働力や肥料、資材の不足によって目標は十分には達成されなかった。
 さらに戦時色の強まりの中で食糧確保・食糧増産が大きな社会的課題となり、「戦時体制下ニ於イテ戦争目的遂行上米穀ノ生産維持増進」を目標に「中津軽郡米穀増産計画」が立てられ、具体的には三ヵ年平均生産量一五万三六五二石の八%に相当する一万二二八七石の増収が目標に掲げられた(「中津軽郡米穀増産計画」、資料近・現代2No.二二八)。そのために地域別・部落別の耕種改善基準を設定し、全農家への励行を続けることとされた。しかし、全国的には「内地」米の不足分は、次第に朝鮮・台湾などの「外地」米の移入で対応するようになった。
 津軽の農業は、米とりんごを基幹作物として発展してきた。中でも清水村はりんごの発展を担ってきた地域であるとともに、しばしば農村調査の対象地域となり、わが国及び津軽地域の農業を展望する上で多くのデータを提供してきた(石岡国雄『下湯口集落史』、一九八九年)。その一つとして昭和十五年(一九四〇)の「苹果地帯農業経済調査青森県中津軽郡 清水村」(資料近・現代2No.二三〇)は、この時期、りんご生産米作より有利であることを実証した克明な調査報告書である。稲作が低位技術に低迷している一方で、りんごは高度な技術と雇用労働に支えられ、「稲作の収入のみでは払ひきれない小作料を労賃収入から或は苹果収入から支払」つているとする戦時体制突入前の津軽地域の農業構造を明らかにしている。
 しかし、戦争による労働力の減少と高額小作料の重圧は、明治期以来、多くの先人によって興隆をもたらしてきた農業構造の転換を迫るものであった。すなわち地主制度の変革と自作農創設、それらを担い手とする商品作物の正常な発展が課題となって浮上せざるを得なかったのである。
 国内の農業・農民問題の解決のためにとられたもう一つの対外的施策は満州農業移民である。青森県は「満州移民分村」「満州青森村分県隊員」を募集した文書を配布し、満州開拓の「意義」と補助・特典を宣伝した(「満州移民分村に就て」、同前No.二二九)。

写真48 出征兵士の遺家族への田打奉仕(昭和15年・堅田地区)