羯南が少年時代愛読したのは山鹿素行の『山鹿語類』で、特に巻第二十一の士道・巻第二十二から第三十二までの士談を好んだ。しかし、素行と違って士道と儒道を区別し、士道を重んじた。延宝九年(一六八一)津軽において『中朝事実』の板行がなされた。四代藩主信政は素行の弟子で、素行の娘亀の夫岡八郎左衛門(津軽大学)と鶴の夫喜多村源八(津軽監物)は信政に仕え、重臣となっており、延宝八年(一六八〇)九月、素行は津軽信政に山鹿流兵学の奥伝である「大星伝」を与えている。以後津軽藩の兵制は幕末まで山鹿流だった。素行は『聖教要録』によって寛文六年赤穂配流となったが、この書は『山鹿語類』の第三部聖学(巻第三十三から巻第四十三)の天地万物の理を説いた篇の要約であり、赤穂配流が許された後、信政は素行からこの書の講義を受けている。『中朝事実』は『日本書紀』などから日本こそが中国(なかつくに)であり、儒教は従であり、仏教は異教であり、本地垂迹説(ほんぢすいじゃくせつ)は誤りで、学問・教育・民生・登庸・祭祀・憲章・礼儀・法令・賞罰・武徳・外夷投化の点において、すべて日本が優秀であることを史実によって述べようとした。
この山鹿学が、幕末維新の動乱期に羯南ら弘前の青少年の心に深い影響を与え、和魂洋才となったことは想像に難くない。明治キリスト教の大指導者本多庸一にしろ、大正二年(一九一三)に弘前教会堂に建てられた碑文で「東奥に生れし日本の国士 日本に出でし霊界の大人」と世界宗教の指導者にあえて国士の称号がつけられた。津軽の近代ナショナリズムは歴史的に深い根を持っている。陸羯南が自分の新聞に「日本」と名づけたのは、素行が従来のシナ崇拝思想を自己批判して、日本中朝主義へ転向した記念の書『中朝事実』が弘前において出版されたことと重なる。