東門会の佐藤正三

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昭和六年正月二日、東門会の指導者だった佐藤正三(さとうしょうぞう)は、官立弘前高等学校への受験を目前に悩んでいた。日記に書き記す。「階級闘争の解決はなんといったって第一だ。食ふてからの問題だ。すべてか。プロレタリアートの解放? 進め!! 自分は東門会そのもの、自己の心そのものについて考へてみる時、いつも矛盾を感じ苦しんできたが今日という今日痛切にこの感を深うした。そして考へた。雨が降ってゐる。深い真理の表面的活動の一現象の役割か? なんといっても事実だ。こころから叫びたい。闘争だ。自己改造だ」。
 そこへ伊東六十次郎から『日露戦争の世界史的意義』が贈られてきた。伊東からは「日本男児は血と涙の苦闘の後に来る幸福者にならねばならぬ。すべてが革命的であれ」と手紙に書いている。それに対して佐藤は「すべてがたゞ淋しく思はれる現在の自分」と書く。三月二十九日佐藤は官立弘高文科乙類に合格した。四月十日の入学式の後、次の感想を書く。「力ある者よ、おん身は不正を破る為めに 力ある者の正しさを示せ 正しさを/\正しきものこそ勝利者なり」。
五月廿七日(東大在学中の)鳴海理三郎より来信、曰く、既成日本主義団体の腐敗、たのむにたらず。

九月廿六日 晩七時から伊東六十次郎兄の「満州問題の世界史的考案」の講演会が第一大成小であり。時節柄聴衆千五百名で、十一時散会。

十一月廿五日雨…力なき雨 鳴海理三郎兄より来書 すぐ返事かき出す。弘ちゃん(注、女優川崎弘子)の「女はいつの世にも」、里見弴(とん)作の「多情仏心」見る。今日学校で檄文をかいて血判を印した。在満兵士慰問の為め。

 鳴海理三郎に宛てた手紙で、佐藤正三は次のように自分の信念を記している。
八師団出動で弘前地方はなんとなく戦争気分です。しかしほんとうに考へて見ると、こうしては居られないと思ひます。對馬少尉(注、二・二六事件對馬勝雄)は満洲へ行きました。弘前などでも金をあつめ、檄文を書いてめいめい血判などおしたりして居ますがどうも私にはお祭り騒ぎにしか見うけられません。それではかの地の兵隊さんは泣くにちがひないと思ひました。このまゝで行ったら即ち忠実な農民や労働者がどしどし戦にひっぱられて行ったならば農村は益々窮状におちいり、国民の生活が不安になってただ内より崩壊するより他ないと思ひます。


写真80 満州へ出動する第8師団

 一部資本家や政党政治屋の為めに我等国民の国家を左右されるならば由々しい問題だと思ひます。国民の軍隊、国家の軍隊を擁して天皇の下に国家改革をなすべきと信じます。青森県の現状は今や上北、下北、東郡は御承知の通り食ふものもないと云ふ有様です。これ等の凶状を目のあたり見て親や兄弟のみじめな姿を見ながら満洲へ行った人々はどんな心地がするでせうか。昨日今日弘前銀行の休業にともなひ五十九(銀行)も三日目の休業に至った。かく農村にも都市にも今や青森県は全く収拾しがたい状態に陥入らんとしてゐる。
 四囲の状況から察して実にこの国内改革の火蓋(ぶた)をきるのが青森県の任務であり、我東門会同志の使命と信じます。
 昭和七年五月十五日 叔父(第五十九銀行勤務)は日曜なのに銀行へ、叔母、母は神様へ、敏彦と僕とが留守。
 警視庁、首相官邸、日本銀行、政友本部等に帝都の要所を襲撃する事件を耳にす。陸海少壮軍人の仕事。首相死ぬ。日本資本主義末期の過渡期に於ける現象だ。日本は今や進むべき道に進んでゐる。我等国民の覚悟と用意が必要だ。我等の命もだんだん役立つ時が来た。みっちり勉強しやう。
 九時頃桂兄宅へ行く。斎藤、高橋、小野、棟方、成田、平山諸兄居合はす。十時半ごろまで話し合ふ。支那ソバ喰ふ。