佐藤正三と二・二六事件

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昭和八年、佐藤正三は官立弘高三年になった。このころ彼は苦悩していた。東門会への参加、養生学の勉強に身が入らなくなっていた。新谷せつという好きな女性が現れたが、彼とは境遇が違っていた。
 昭和九年、佐藤正三の帝大合格は、本人はもちろん、周りのすべてが信じて疑わなかった。しかし、入試結果は不合格だった。中央大学に籍を置いて浪人生活をすることにした。三月二十八日、常磐線回りの急行で帰途につくことにしたが、夜の十時半なので午前中に千駄谷の西田税(にしだみつぎ)を訪ねた。伊東六十次郎の紹介だった。初対面だった。そこには渋川善助がおり、しかも満州から凱旋した對馬勝雄中尉も居合わせ、昼食を挟んで〝快談〟した。二年後、西田も渋川も對馬も二・二六事件で死刑となった。
 弘前へ帰った佐藤は、あと一年を受験準備に使うのが惜しかった。五月満州へ旅立つ。青森駅を発つとき、第五連隊の末松太平中尉が見送った。満州で得たものは、真実の満州の姿と日本を眺めたこと、そして自己のあまりにも無力なことだった。九月二十二日、弘前へ帰った。二週間滞在して再び上京、あとは東京の東成荘(東京成年養生会の塾)が完成したからそこで自炊し、養生会の仕事と帝大受験の勉強をして、三月まで帰るまいと決心した。東京の新生活は張り切って始めた。しかし、果敢なく一ヵ月で終わった。十一月十四日、いつもの夜行列車に乗った。

写真81 旧制弘高生の登校風景

 十二月二十七日には憲兵が来て、午前十時ごろから夕方六時まで取り調べを受けた。家人に手紙を処分するように言った。昭和十年一月一日、恋人せつの存在を母と叔母に話した。しかし三月、また帝大入試に失敗した。夢想だにしなかったと書く。今回は比較的易しいはずの文学部だった。二倍の競争だ。「油断した」「遊び過ぎ」「いらないことに心を費やしすぎているのだ」「身から出たさびだ-過去一年の生活態度を考えて私は何もいう言葉がない」と日記に書いている。五月一日再度東成荘に入る。金もなく職もなく、本を読むでもなく、ここの生活は砂漠だと打ちひしがれている。八月帰弘。勉強手につかぬ。九月、せつは北海道の生家へ帰った。身辺に特高、憲兵が現れる。第五連隊の末松大尉に会ったり、淡谷悠蔵に会ったり、秋田市の東北愛国団体連合会に出席したり、行動が激しくなった。北洋漁業問題など時事問題の原稿を書き、社会大衆党の結成会を傍聴に行くなど受験生活から離れていく。十月上京、十一月末に東成荘を離れて下宿し、やっと勉強できるようになった。そして『東北文学』に創作『艤装』四五枚を書く。『文学界』や『文芸首都』も読み出す。養生会の建て直しにも懸命に力を尽くしたが、成果は見えない。
 明けて昭和十一年一月、ついに受験勉強の生活から離れた。文学への熱が上がり、「相沢中佐の片影」を書いたのが最大の仕事と自認した。
二月二十五日 妙に疲れて勉強に気が向かぬ。
  『大眼目』(相沢中佐公判記録)を読む。
二月二十六日 二・二六事件突発。


写真82 2・26事件を伝える『東奥日報』(昭和11年2月27日)

 佐藤正三は西田税のもとで、『大眼目』編集仲間と蹶起(けっき)将校を応援するため「昭和維新」第一報を作って各地に発送、引き続いて第二報、第三報の準備をしていた。雑誌『大眼目』は万朝報の杉田省吾が編集、渋川善助らが執筆している国家革新派のオピニオン誌である。三〇〇〇部ほど出していた。二十七日も佐藤は西田のところで「昭和維新」を編集していたが、渋川の指示で、地方を蹶起させるため二十八日青森へ向かった。まず、第五連隊の末松大尉を訪ねた。しかし、事態は蹶起側に不利に動いていた。佐藤の使命は失敗した。東京へ帰った佐藤は三月四日杉並警察署に検挙され、のち目白署に移され、さらにまた杉並署に回された。その後東京衛戍(えいじゅ)刑務所に収容されて東京高等軍法会議にかけられ、八月二十日反乱幇助(ほうじょ)罪で起訴された。そして、十月二十二日、東京軍法会議特別裁判公判特別裁判公判に付され、十一月二日禁錮四年を求刑され、昭和十二年一月十八日反乱罪として禁錮一年半但し執行猶予四年の判決を受けた。一月十八日午後六時ごろ衛戍刑務所出所、二十一日午後七時の急行で帰弘の途についた。着いてすぐ東北帝大法文学部へ入学願書を出すが拒否される。理由はあまりに出所直後で「転向」の証明が立たぬからとのこと。しばらくの間新聞記者、特高刑事、憲兵らがうるさくつきまとう。五月一日から東奥日報社で働く。ペンネームを宇田川曉、陸文雄として再出発の気持ちとした。五月十九日、徴兵検査第一乙種に決定。
七月十二日 昨年の今日
大義のために喜んで逆賊の悪名に死した方々を想起し感慨無量のものあり 早朝對馬(勝雄)さんの墓前に参拝し心からの決心を示す。