昭和は憲政会の第一次若槻(わかつき)内閣で迎えた。首相の若槻礼次郎は直前の加藤高明護憲三派内閣の内相で、普通選挙法と治安維持法を成立させた。この時代は政党相互の熾烈(しれつ)な対立抗争時代であり、不況に苦しむ庶民を尻目に政党政治腐敗の時代だった。その結果、昭和七年の五・一五事件で政党政治が終焉(えん)を告げるわずか五年半の間に、青森県知事は六人の交代があり、平均在任期間は一〇ヵ月半、一年にも満たない六ヵ月未満が二人あった。この官僚知事や部長たちには県民の将来は眼中になく、己の立身出世が目標だった、とは初代民選知事津島文治の言である。
昭和二年三月、蔵相片岡直温(なおはる)の失言をきっかけに金融恐慌が始まるが、青森県の恐慌状態が本格的になるのは昭和五年末からである。この間、昭和四年には世界恐慌がウォール街の株価崩落を発端に始まっており、本県ではさらに相次ぐ冷害、農業不況がこれを深刻にした。昭和二年(一九二七)の本県農家戸数は自作農二万五一四五戸、自作兼小作農三万二五二七戸、小作農二万四九七九戸だったが、四年後の昭和六年には自作農一万七五七八戸、自作兼小作農二万九三四八戸、小作農二万四四七五戸と大変動した。また、失業者は、昭和四年から五年にかけての青森・弘前・八戸三市とその付近の月々の統計では、一般労働者およそ八万人中、五〇〇〇人から六〇〇〇人が発生した。
日本全国での工場労働者の雇用指数は、昭和元年を一〇〇として三年一月は九〇・九、五年一月は八八・七、失業者数は五年十一月ついに三〇万人、失業率四・三六%と発表された。しかし、実際の数はその一〇倍近く、昭和五年は帰農者を含めて三〇〇万人とも推定された。
政党政治は、財閥との結託、買収選挙、官吏の更迭、勅撰推薦-これらを慣例とし、腐敗は昭和四年その極に達し、高官をめぐる疑獄事件は次々と明るみに出た。浜口内閣は「好景気近し」のムードを広めようと、昭和五年一月、一三年ぶりに金解禁を行い、金本位制に復帰したが、世界大恐慌のさなかに行われたために、かえって国内の不況を深刻化させた。