疲弊する農村

250 ~ 251 / 965ページ
昭和五年は豊作だったが、豊作飢饉で、米一石(約一五〇キログラム)の生産費が二七円なのに、秋には一俵(約六〇キログラム)五円にまで下がり、畑では「キャベツ五十で敷島(しきしま)一つ」「蕪(かぶ)は百把(ぱ)でバットが一つ」と言われた。敷島もバットもタバコの名で、前者は一八銭、後者は七銭だった。そして翌昭和六年は大冷害が襲った。昭和二年七月に簡易保険局は本県の乳児死亡率を日本一と発表、トラホームの罹患率も日本一と言われた。昭和二年の一般住民トラホーム検診状況では三〇%の罹患率であった。当時の県下一六七市町村のうち、三五%を超える六二町村が無医村であった。
 農村の疲弊に対して政府も救農政策をとり、自作農創設維持資金を貸し付けたりしたが、青森県の場合、昭和五年には自作兼小作から自作になったもの一〇〇人に対して、自作農から小作に転落したものが一五四五人に達した。同年の全国の農家負債は四〇億円を超え、一戸当たり七、八百円という額になる。収穫前の産米を売る「青田売り」が行われ、地主、仲買、肥料商人が懐を肥やし、農家は借金で首が回らなくなると娘の身売りさえ行われた。
 昭和六年、弘前の遊郭には貸座敷業二二軒で娼妓一一七人、ほかに弘前市内には芸妓六三人、酌婦三五人、女給九二人がいた。もちろんこれらの出身地は全国にわたっているが、生活困窮による女子人身売買類似行為は、弘前周辺では、昭和六年、芸妓二七人、娼妓四六人、酌婦六四人、女工一四四人、その他二五二人で合計五三三人、青森県全体では芸妓三四六人、娼妓二九五人、酌婦六二五人、女工二九二人、その他五五九人で計二一一七人に達した。

写真87 欠食児童救済のための学校給食(和徳小、昭和9年)