宗教団体法の成立

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昭和十四年(一九三九)三月二十三日、第七四回帝国議会は「宗教団体法」を成立させた。前年四月に「国家総動員法」が公布されて以来、次々に行われた国家による統制政策の一環として、宗教に対しても統制の道を開こうとした法案で、翌十五年四月一日から施行された。弘前の宣教師たちも、教会、東奥義塾、、弘前女学校から帰国する者が目立った。かくて、十六年六月二十四、二十五日の両日にわたって、日本のプロテスタント四十余の教派が解消を遂げて、「日本基督教団」として創立総会が東京の富士見町教会で行われた。
 メソジスト教会では、すでに昭和十二年に「今次の事変に際しさきに政府より発表せられたる声明の趣旨を体し、挙国一致、時局に対する認識を深め、国民精神の作興に一層の努力を献(ささ)げ、東亜における恒久平和確立のため祈らんことを期す」と戦争協力を宣言していた。
 しかし、キリスト教に対する圧迫は強く、昭和十六年十一月東奥義塾は退役陸軍中将浅田良逸男爵を塾長に迎えた。これは浅田が笹森順造の弟で、かつて弘前教会で洗礼を受けた者であることを考えてのことだったが、着任二ヵ月余りで東奥義塾キリスト教主義の旗を降ろした。また、その前年、下北半島の伝道から津軽農村伝道センター所長となり、東奥義塾教師となった滝沢清牧師は、弘前市公会堂で内務省神祇院の神官から、全市内中等学校生徒の見ている前で神社参拝の礼式と玉串奉奠(たまぐしほうてん)を強要され、知らないと言ったら、師団司令部で講習をやるから出てまいれと屈辱を与えられた。また、学校では、古田という軍人上がりの教師が机を叩き、生徒を扇動して排撃運動を起こさせ、馬車を差し向けられて、十七年二月、滝沢牧師は弘前を退去した。