市民の政治意識の変化

281 ~ 284 / 965ページ
昭和九年四月、成田徳之進市長は名古屋市で開かれた全国市長会議の帰途、東京にて奇禍に遭い、大手術を施し、帰弘後も病床にあり、六月八日辞表を提出した。かくて前年に引き続いて再び市長選挙となった。
 政友派は七十二歳の石郷岡文吉元市長を立て、後れて民政派は弘前出身で東京居住の予備役陸軍少将三浦真を候補とした。選挙は、党員市議九人の政友派が、中立議員と、竹内助七(柔術家、俳人。のち弘前職業紹介所長)の市役所入りを条件とした興新同盟と組んだため圧倒的に優勢で、六月十八日の選挙結果は二一票対八票の絶対多数で、石郷岡第一五代市長誕生となった。石郷岡市長は和衷協同の精神で終始すると挨拶した。
 社会状況が深刻なときに、相変わらずの旧態依然とした市政に市民の目は冷ややかになり、昭和十一年四月十七日の市議五人の補欠選挙では、有権者七九三四人のうち棄権三六七五票、棄権率四六・三%、それに加えて無効投票一四八票、その内容は大部分は候補者を嘲笑し、選挙の神聖を無視したものばかり、候補者以外に投票したもの一七票で真剣味を欠いたものだった。
 昭和十二年二月林銑十郎内閣が成立したが、既成政党の崩壊をねらって、三月三十一日抜き打ち的に議会を解散した。当時第二区の代議士は、黒石の兼田秀雄(政友-昭和会)、弘前の工藤十三雄(政友)、菊池良一(民政)の三人だった。第二区の立候補者は、これら前代議士のほか、弘前出身の新聞記者小野謙一が三回の失敗にめげずに四たび東方会公認で打って出、社会大衆党は岩淵謙二郎、立憲養正会は佐藤信蔵を推した。さらに、政友会から公認の津島文治(金木町)と非公認の對馬桑太郎(石川町)、民政党からは公認で藤田重太郎(高杉村)も立候補し、九人で議席を争った。小川正儀青森県知事は、この衆院選挙と前後して行われる市町村会選挙を絡めて、公民と官公吏の自覚を促して選挙粛正運動を諭告(ゆこく)した。
 選挙結果は次のとおりである。
  当選
    一五、〇三四票 小野謙一(東方会・新)
    一一、一八三〃 津島文治(政友・新)
    一〇、二九四〃 工藤十三雄(政友・前)
  次点
     八、五二五〃 菊池良一(民政・前)
     七、七一九〃 藤田重太郎(民政・新)
  法定点未満
     五、四四四〃 兼田秀雄(昭和会・前)
     三、一五〇〃 岩淵謙二郎(社大・新)
     二、九四八〃 對島桑太郎(政友・新)
  供託金没収
     一、二四一〃 佐藤信蔵(養正・新)
 当時の選挙評によれば、第二区の小野謙一の最高得点は予想外で、同情票で得たとする。しかし、東方会は、中野正剛の主宰する思想団体を昭和十一年に政治団体に改組したもので、全体主義的国民運動を標榜しており、津軽地方に旧来の政治社会に飽き足らない気運が生まれてきたものと言える。それは、社会大衆党の得票増にも表れた。そして、弘前市における投票率が八〇%を超え、南津軽、中津軽郡においても八〇%弱という高い投票率にもそのことはうかがえる。社会大衆党は階級闘争の路線を捨てて国家社会主義に転向し、重鎮中浦秀蔵は東方会入りをなした。
 なお、津島文治は、選挙違反に座して代議士当選を辞退したため、次点の菊池良一が繰り上げ当選となった。
 石郷岡文吉市長は、十二年秋ごろから健康がすぐれず、後任問題が起きていたが、市議たちも非常時下無益な政争を続けることは恥辱と反省し、政友会内の派閥抗争を解消、民政派など少数派も一致して、助役乳井英夫を十三年三月二十五日の市会において満場一致で市長に選んだ。