進駐軍対策のほかに市当局の敗戦処理として重大な業務は、多数の復員兵や引揚者をどう保護するかであった。人口の激増に伴う食糧や住宅の提供、就職先などの斡旋など、市当局の業務は山積していた。青森県内の復員兵は青森連隊区司令部が唯一の軍務処理機関だった。だが第八師団をはじめ、第五連隊も含む各連隊はすでに解散させられていた。そのため昭和二十年(一九四五)十二月一日以降、青森連隊区司令部は第一復員省の地方末端組織として、青森地方世話部と名称を改めることになった。十月二十日現在、青森県出身の復員兵は約八万五〇〇〇人であり、そのうち復員していない人数は五万五〇〇〇人余りいた。つまり三分の二はまだ復員していなかったのである。これらの人々を復員させ、その後の対応や保護を実施するのが地方世話部の仕事であり、各自治体の任務となった。
敗戦直後の復員兵や引揚者に対する最大の配慮は、何といっても食糧供給であり生活物資の配給だった。しかし資源が乏しく食糧自給率も低い日本国内に、国民を満足させるだけの食糧や物資はなかった。そこで政府が目をつけたのが軍需物資だった。戦時中、出征軍人のために食糧や物資の供出が半ば強制的に行われ、各地域の軍事施設には豊富な物資があった。膨大な軍需物資は、敗戦と軍隊の解散により名目を失いつつあった。
軍需物資の払い下げは昭和二十年八月十四日の閣議で決定した。進駐軍に没収される前に大量に払い下げようとしたのである。だが、いざ軍需物資の処分が開始されると、その目的が大資本家への大量払い下げであることが判明し、国民の非難の的となった。政府は八月二十七日、処分の廃止を決定したが、時すでに遅かった。しかしこのときの国民の非難は、むしろ復員将兵が軍需物資を争奪し合い、買い出しに殺到する姿へ向けられた。とくに外地から死にものぐるいで引き揚げてきた人々は、国内駐屯兵が復員のどさくさに紛れて軍需物資を大量に奪取し隠匿したりする姿に怒りを表した。同じ引揚げでも内地と外地では大きな差がある。このため外地引揚者への支援と対策が必至となった。
突然の敗戦により、外地とくにソ連の来襲を受けた旧満州地域の人々や、南方の太平洋戦線で死闘を繰り返していた人々は、着の身着のままの強行軍で引き揚げざるを得なかった。そのため敗戦直後、青森連隊区では県当局に対し衣類や靴などを払い下げ、県の繊維製品統制株式会社や皮革統制組合を通して、戦災者へ配給している。青森市は早い段階で配給を完了していたが、弘前市は十二月に入ってから割り当てられた。略帽、袴、外套、毛布、敷布、靴下、編上靴などで、いずれも出征兵のために集積された軍需物資であった。本来、外地からの引揚者は出征していた地点の引揚民援護事務所で衣類などを支給される手はずだった。だが実際には、その支給を受けられずに引き揚げてきた人も多かった。
軍需物資の略奪行為が国民の反感を買ったのは、略奪行為自体にではない。庶民も物不足のため軍需物資の分配や配給を歓迎していたからである。むしろ反感や怒りは軍需物資の分配と恩恵が軍関係者に偏在し、庶民に十分に与えられなかったことにあった。闇市などの問題に顕著なように、当時の国民にとって物資の略奪や買い出しは、生きていくための必要悪的な側面が強い。不正行為に対する怒りよりも、公平を欠くこと自体に非難が集中したのである。