戦後復興期の財政

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弘前市の戦後復興過程における財政の動向は、各年の財政説明書からみることができる。昭和二十二年(一九四七)予算提案理由において、戦後の弘前市は、戦前の軍都としての性格を払拭し、まず、学都・文化都市として、仙台市に並ぶ東北の中心都市となるべく、諸施設を早急に整備する必要があると述べている。次いで、全国的に知られるようになった弘前公園の施設を整備して観光都市を目指すが、具体的に公園費は一般管理ばかりでなくさらに整備を進めるための予算、また、観光事業を推進するにあたり、観光客を誘致して本市を広く紹介するための予算が計上されている。さらに、産業増強に関する問題、保健衛生に関する問題、そして、社会事業に関する問題などが市の政策遂行の目標となった(資料近・現代2No.三八八)。
 二十三年の財政説明書では、過去一〇年を振り返り、市の予算規模の急激な増加の実態が説明されている。戦前の市の予算は年間一〇〇万円ぐらいで足りたが、戦後は増加の一途をたどり、二十年度歳出は一六三万一三二六円、二十一年度歳出は八一八万二七八五円と約五倍にまで増加し、さらに二十二年度歳出は三四四一万三〇九五円と前年の四倍以上に増加した。そして、二十三年度の予算額も六四三八万二四六〇円となり増加額が著しい。これは歳出項目の増加というよりも、終戦直前、巨額な軍事費を捻出するため日銀券が大量に発行されたことによるインフレーションの進行を示すものであった(同前No.三九〇)。この急激なインフレに対し、行政はもちろん市民の間からも物価安定運動が起こってきた。二十三年五月、物価対策を主題とした弘前地区の商工業者大会が商工会議所で開催され、「適正価格の励行」、「価格表示の厳守」を決議し、さらに売上税反対、不急不要商品の統制撤廃の陳情などが決定された。また、同月には県に物価監視委員の制度が設けられ、これに対応して弘前物価安定委員会が自主的に組織された。十一月になると消費者物価の動きに関心を持つ主婦の間からも運動が起こり、本市に家庭婦人を中心とした「物価安定主婦の会」が結成された。十二月にはその影響で青森・八戸両市にも同じような会が結成され、それぞれ正月用品の確保や廉売をスローガンにして運動が始まり、その後、黒石、五所川原、三本木(現十和田市)など県内各地に展開され、やがてそれらを連合した青森県生活安定主婦の会協議会が結成されることになった。そして、二十四年四月の第一回選定以来、県内市町村の「主婦の店」選定など活発な運動が行われた(旧『弘前市史』明治・大正・昭和編、弘前市、一九六四年)。
 二十五年の財政説明書では、ドッジ・ラインシャウプ税制の施行により「その目途は自治財政確立の恒久財源の指標なるも、本市としてはこれによつて必要財源確保たり得るかは、地方財政平衡交付金裏打ちを引当てるもなほ疑義なしとしない、徒〔従〕って今後の市財政は費用支出に既定なると予定するとに拘はらず、充分なる戒心を以つて再思三考審重に検計〔討〕を加へ施策実行に万全を期し、市勢進展に努力を傾注しなければならない。」(資料近・現代2NO.三九一)とその影響が述べられている。
 二十六年の監査報告では、本市は明治二十二年、県下で最初に市制施行したが、昭和二十六年における人口は六万五五九七人(国勢調査数)で、後に市制施行した青森市の一〇万六四一七人、八戸市の一〇万四三三五人に遠く及ばなくなった。両市とも沿岸に位置し、海陸ともに交通運輸の便に恵まれ、これに伴う施設も進展しているが、本市は四方を農村に囲まれ、さらに、戦後商工業ともに沈滞の状況にあるため人口の増加率が低くなっていると述べている(資料近・現代2No.三九二)。