地場産業の諸相

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戦後復興期における弘前市の地場産業は、時代の要請により新たな展開や衰退を見せていく。
(一)津軽塗
 津軽塗の漆器工業は、戦時統制下の企業整備により従業員は転廃業をやむなくされ、昭和二十二年(一九四七)にはわずか三四人を数えるにすぎなくなった。さらに戦後の配給統制のもと、二十二年の重要資材使用統制規則により、ほとんどの津軽塗製品に対し漆液の使用が禁止され、翌二十三年には指定生産資材割当規則によって、生活必需品としてわずかに残された漆器の生産にも漆液の配給が実施されるに至り、漆器生産は極度に制約された。しかし、これらの統制も二十五年以降完全に撤廃され、津軽塗はようやく戦前の面影を取り戻すようになった(旧『弘前市史』明治・大正・昭和編、弘前市、一九六四年)。
  (二)ぶなこ
 津軽塗はバカ塗りといわれるほどていねいに塗るため、堅牢であることには定評があったが、製品が高価なため大衆向けではなかった。また、塗りの特性から機械化が困難であるとともに、デザインも現代的でないという欠点があった。そこで、青森県工業試験場では、これら津軽塗の欠点を克服するため、郷土色豊かな漆工芸品の研究開発に取り組んでいたが、昭和三十二年にそれが〝ぶなこ〟として誕生した。
 〝ぶなこ〟は青森県に無尽蔵といわれるブナ材を加工して、細長い単板を作り、これを渦巻き状に巻いてプレスし、合成樹脂との結合によって仕上げをしたものであり、塗装の方法もこれまで木材素地には難しいとされてきた漆をはじめ、各種化学塗料を加工するという創意に満ちたものであり、堅牢優美でお盆、菓子器、その他の容器などが主な製品として仕上げられた。そして三十三年(一九五八)、〝ぶなこ〟生産会社として日本ウッドプラスチック株式会社が小野吾郎(小野印刷社長)、福士文知(開業医)、小野定男(小野病院長)ら〝ぶなこ〟起業化設立委員の手により、資本金五〇〇万円で設立された。なお、社長には小野吾郎が就任した。操業を始めると〝ぶなこ〟製品は東京、横浜、大阪などに販売店が設けられ、国内はもとより、アメリカ、スウェーデン、デンマークと海外からも注文がくるなど新たな漆工芸品として評判を博した(柳川昇他『弘前市における商工業の現状と将来』弘前市、一九五九年および『陸奥新報』昭和三十三年八月十日付)。
  (三)弘前手織
 織物工場も津軽塗の漆器工業と同様、戦時企業統制により多くが姿を消し、残るは東北織物と葛西織物の二工場のみとなった。終戦後の二ヵ月間は休業状態であったが、やがて業務を再開して進駐軍の衣服の洗濯・修理などを行い、その後、貿易公団の発注によって輸出向け綿織物の委託加工を行った。昭和二十三年からは東洋紡績の下請けによるアメリカ向けテーブルクロスの生産を再開した。しかし、二十四年のドッジ・ラインにおけるデフレーションのため、原料の一時的中絶や工賃の公定価格化により工業経営は苦境に陥ることとなった。それでも二十五年以降は統制が撤廃され、朝鮮動乱による特需も加わり、業績が回復していった。同年秋の第二回全国織物品評会において、東北織物出品の織込ネルは特選通産大臣賞を受賞した。
 その後も生産は順調に伸びていくが、三十年代になると全国的に普及してきた化学繊維に押されぎみとなり、三十四年、東北織物は従業員二八人の解雇を行い、まもなく会社そのものも解散やむなきに至るのである(前掲『弘前市における商工業の現状と将来』および旧『弘前市史』)。