第一回小学校連合体育大会

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昭和二十八年九月四日、弘前公園三の丸市営野球場において、第一回弘前市小学校連合体育大会が開催された。主催は弘前市教職員組合小学校部と弘前市連合PTAで、弘前市教育委員会が後援した。参加小学校は朝陽、第一大成、第二大成、和徳、時敏、城西、桔梗野、附属の八校で、参加児童は五・六年生男女二〇七〇人であった。
 連合体育大会の開催は、市内八校の保健関係教員の集まりで話題となり、熊谷修吾城西小学校教諭が中心となって計画が進められた。開催に先立って同年七月、市内小学校五・六年生担任教員の代表を時敏小学校に招集して、連合体育大会開催の是非を諮ったが、話し合いは甲論乙駁(ばく)、むしろ開催反対の声が多かった。当時は終戦後まだ日が浅く、大方の教員は軍国主義的風潮に極めて敏感だった。教員たちは体育大会の開催が軍国主義的教育の復活につながることを危惧したこと、また、市内各小学校は何かにつけて対抗意識が強く、体育大会が開催されると勝たんがために選手を養成し、そのような事態は民主的教育に逆行するのではないか、などが開催反対の理由であった。
 それについて熊谷教諭から、連合体育大会の開催は本市小学校体育教育の発展向上と、市内小学校の児童・教員の親睦を深めることを目的とし、軍国主義教育の復活や一部の選手養成を目指すものでない旨の釈明があり、参会者も熊谷教諭の熱意に打たれて、第一回連合体育大会を試験的に行うことにした。
 当時はまだ小学校の体育研究サークルは組織されていなかった。そのうえ、大会開催計画が急に出されたため大会資金の捻出に困り、弘前市教職員組合弘前市連合PTAに資金を提供してもらうことになり、したがって、主催は市教組と連合PTAという変則的なものになった。そのころ、教職員組合は校長以下全教員が加入していて、研究集会や児童お話大会など組合主催で行われていたので、小学校連合体育大会を組合が主催しても、誰も不思議とは思わなかった。
 大会当日の九月四日は晴天で、市営球場は五・六年生の出場児童と三・四年生の見学児童で埋められ、午前九時から開会式を挙行、そのあと次の種目の体育が演ぜられた。一、第一ラジオ体操・五年男七八〇人、二、第二ラジオ体操・五年女七〇〇人、三、関所ボール・六年男女三二〇人、四、関所ボール・五年男女三二〇人、五、制定体操・六年男八〇〇人、六、ギャザリング・ビー・スコッチ・六年女七九〇人などである。プログラムを見ると、児童の親睦を主として、体操やダンスを多くし、競争種目を努めて避けているなどの配慮がうかがわれる。六年男の制定体操はかなり高度な徒手体操の組み合わせで、当日の呼び物だったが、制定したのは市内小学校の体育教員たちである。

写真129 第1回弘前市小学校連合体育大会(公演三の丸市営野球場・昭和28年)

 第一回小学校連合体育大会は予想以上に好評で、以後毎年九月に行われるようになったが、弘前公園陸上競技場を会場にしたのは昭和三十年の第三回大会からである。

写真130 公園陸上競技場時代の小学校連合体育大会(昭和49年)