終戦直後の東奥義塾

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昭和二十一年は義塾にとって多難な年であった。第一に職員を確保することが難しかったうえ、浅田塾長が辞めたので笹森順造が再び塾長に就任しなければならなかったこと、第二は物資の欠乏による授業へのしわ寄せである。食糧事情の悪化と教科書や教具教材の欠乏が、授業の障害になっていた。
 二十二年になると、新制中学校発足とともに男女共学が始まった。そのためかこの年は入学志願者が殺到し、八学級編成にして受け入れたものの、二教室は仮設にするなどして対応している。従来の父母会は発展的に解消してPTAに代わった。しばらく中絶していた毎日の礼拝も復活した。戦後の混乱もようやく鎮静化して修学旅行も実施されるようになった。
 昭和二十三年には新制高校として発足。入学志願者は男四五九人、女六一人であった。この年は久しく絶えていた宣教師の配属も復活し、アメリカから二人の宣教師が八月に着任している。二十七年、義塾中等部は女子の募集を中止した。理由は女子志願者の減少であった。義塾はいち早く男女共学を採用したが、五年を経過し、入学志願者は女子校に集中して僅少となり、共学の目的を欠くに至ったと判断したのであった。
 二十八年にはC・アイグルハートが帰国の途についた。彼は明治四十二年以来、多年にわたって在日し、大正十一年の義塾再興の立役者であったほか、昭和初年に相次ぐ火災で校舎が焼失し悲嘆に暮れていたとき、再築のために奔走してくれた恩人であった。
 それまで義塾には専用の礼拝堂がなかったが、昭和三十年には完成した。再興三十五年記念事業の一環として、昭和三十二年には、独立したモダンな円形図書館が落成した。
 後にスポーツ王国と言われるようになる東奥義塾の活躍は、二十年代末から始まる。決して練習場に恵まれた環境にはなかったが、まず、昭和二十七年、第一回全国高校スキー選手権リレー競技で初優勝を飾ると、その翌年には二連覇をなし、総合でも二位となったほか、同じく二十七年、初めて甲子園への切符をかけた北奥羽大会の予選に出場、二十八年にはインターハイの卓球シングルスで優勝を収めるなど、バドミントン、陸上競技でも県内には敵なしの活躍を見せ、これが三十年代以降王国の名をほしいままにする黄金時代へとつながっていくのである。

写真136 スキー部の優勝(写真は昭和38年のとき)