市民の要望と行政の方向

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昭和三十年(一九五五)四月三十日、合併を一応終えた弘前市は、名実ともに「新弘前市」となった。合併問題のさなかにさまざまな施政方針を聞かされてきた地域住民にとっては、「新弘前市」に期待すること、要望すること、改善してほしいことが山のようにあった。この年の五月中の陳情は、道路の補修、農道の修理、町名変更、部落集会所の新設、校舎の改築など多数寄せられている。そのなかでもっとも多い陳情は校舎の改築だった。町名変更に関する陳情などは、合併問題を大いに反映したものといえるが、全体的に自治体としての基本的施策に含まれる要請が目立った。それだけ「新弘前市」に対する住民の期待や要望、批判や不満が強かったのである。もちろん合併後の「新弘前市」の行く末と施策に関する期待や不安が入り交じり、混沌としていた住民感情の反映でもあったろう。
 中郡一一ヵ村を合併した「新弘前市」は市街地と村落地が一帯となり、従来とは比べものにならないくらい大きな自治体となった。人口も二倍となり、当然市の行政が扱わなければならない施策も幅広く深くならざるを得ない。事業費も多額となり、市役所職員が扱う市費と事業活動は大幅に増えた。
 合併問題で見逃されがちなことは、合併を前後して自治体規模が突然大きくなることと、それに伴う行政と市民の関係が変わることであろう。長期間にわたり基本的には毎年同じような事業と施策に取り組む行政当局と、毎年変わらぬ生活を過ごす地域住民にとって、住み慣れた自治体が突如として大きくなることは、ある意味でたいへんな衝撃となる。行政のきめ細やかなサービスを享受したい地域住民にとっては、合併後の計画や方針、具体的な内容を理解・把握しておかなければ、合併後の生活維持にも大きな支障が生じる。窮乏する自治体予算だけで合併を考えるばかりでは、合併後にさらなる大きな問題点にぶち当たるだろう。地域住民も合併問題に自発的に取り組む必要 がある。
合併後の建設計画は基本的行政施策より、合併助長に偏重したものだったことは否めなかった。換言すれば合併後の大きな統一体として最善の行政施策計画を作ったのではなく、目先の合併を成就するため都合の良い施策を取り入れた性格が強かった。合併後すぐに「新弘前市」の市民から基本的施策に関する陳情が殺到したことは、何よりの証拠であろう。すでに合併後の社会教育にはいろいろな問題が生じてきており、合併計画も農業補助事業に偏重し、肝心の基本的な市民生活に対する事業費が不十分だとの指摘も出ていた。
 田市政を批判し、新市長に就任した岩淵市長は、前年度議会で決定された昭和三十年度予算を再検討する必要性があると表明していた。けれども『陸奥新報』の社説は、それ以上に合併後の「新弘前市」建設計画自体を抜本的に再検討せよと訴えている。市町村合併には、合併に至るまでの交渉に焦点が集まる傾向が強い。しかし本当に重要なことは、合併後の新市町村の方向性を考えることにあるといえよう。

写真151 旧役場を出張所に改称