弘前大学を学都弘前の中心とし、市の発展の基礎とすることで市や県の幹部は一致していた。それは財団法人弘前大学後援会が、知事・市長をはじめ、県内・市内の政界・財界の幹部をメンバーに設立されたことからも理解できよう。昭和二十四年(一九五九)十二月のことである。後援会自体は政財界の幹部が中心となって、大学充実のための費用捻出として、各方面から寄付金を募る機関だった。
後援会の果たした役割でもっとも重要なものは、農学部の設置と充実だった。青森県が農業を中心に発展の基礎としていたことは従前からの基本方針である。弘前市も県と同様、農業を市政の中心に置いていた。そのために学都弘前の本部である弘前大学に農学部を設置する要望は、市だけでなく県内各地、各界から強く寄せられていた。
しかし農学部設置の母胎となる基盤がないという理由で実現を見ず、結果的には大学発足当初は文理学部内に農学四講座を設置するにとどまった。それでも昭和二十七年三月、五講座をもって文理学部に農学科が異例の措置として認められている。この異例の措置を見た要因には、弘前大学後援会の設置と募金収集活動が大きく関与していたのである。後援会は知事を会長とし、弘前市長を副会長として、県内各地の政財界の代表を集めた機関だった。その活動が基本的には募金・寄付金収集活動にあったとはいえ、県を代表する人々の政治力は相当な威力をもたらした。こうして昭和三十年七月、県民待望の農学部が一〇講座の内容を得て実現し、附属農場として金木農場をも兼ね備えることになった。
しかし農学部の校舎は旧師団司令部をはじめ、軍都弘前時代の軍事施設をそのまま使用したものであり、農場も建物も荒廃しかかっていた。図書、標本、機械器具類の設備も全国各大学農学部の現状に比較して最低の部類に入るような有様だった。そのため後援会では昭和三十二年八月、弘前大学農学部の拡充整備についての趣意書を発表し、募金運動を展開した。青森県の主要産業たる米、りんご、水産、林産、畜産の発展と人材の育成が切望されており、農学部の拡充整備が青森県の産業界に及ぼす影響が大きいというのが、活動の基本的方針であり理由だった。
農学部拡充整備費の募集に際しては要項も作られた。それによれば募金目標額が、一ヵ年五〇〇万円ずつ五ヵ年継続で募金し、合計二五〇〇万円となっていた。募金の範囲は事業に賛同する官公庁や各方面の有志とされた。基本的には公的団体を中心とした県内各地の政財界有志ということであり、後援会メンバーが率いる団体からの寄付金を意図していたことがわかる。要するに後援会メンバーの管下組織、より具体的にいえば部下・従業員たちの寄付金に依存していたのである。
弘前大学は国立大学であり、基本的な運営方針に国の意向が強く反映するのは当然である。しかし農学部の拡充整備に当たっては、後援会の活動をはじめ、県内の各界各団体の助力が不可欠だった。後援会の趣意書にも、農学部の拡充整備は国の財政上から見ても国費をもって実施するのは極めて困難であるとあった。後援会の募金活動は、劣悪な設備しかもたない農学部を中心に活用するが、いずれ他学部にも及ぼせるよう活動すると、趣意書にも明記されている。農学部の設置や拡充に見られるように、弘前大学は青森県や弘前市という地元地域の支えによって維持されてきた側面が強かったといえよう(弘前大学については、本章第五節第五項のほか、『弘前大学五十年史』弘前大学、一九九九年を参照)。