りんご加工業の推移

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りんご加工業が本格化するのは、第五章第二節第四項で述べたように昭和に入ってからとなる。
そして、事業として安定するのは昭和十年代以降となるが、りんご加工業の推移を検討すると、加工定着期(第一期)、アルコール転換期(第二期)、ボイル・ジャム復興期(第三期)、果汁・缶詰発展期(第四期)、果汁躍進期(第五期)、果汁制圧期(第六期)の六期に分けることができる。
   (一)加工定着期(昭和十~十五年)
 ボイル・ジャムを中心に製菓原料や増量材として、りんご加工製品が製造された。
   (二)アルコール転換期(昭和十六~二十二年)
 ボイル・ジャムとりんご酒との併進期といってもよく、戦時統制期に入り日本酒が醸造制限を受けたために供給減になるとりんご酒の需要は高まり、ブームが到来した。だが、終戦後、日本酒生産が復興するとその代用品にすぎなかったことが明らかとなり、需要は減退した。
   (三)ボイル・ジャム復興期(昭和二十三~三十年)
 日本人の食生活は、占領軍の影響でパン食や洋菓子の消費量が増大するなど、変化がみられるようになった。昭和二十五年にはボイル・ジャムが一〇〇万箱を超え、消費量が爆発的に伸びた。
   (四)果汁・缶詰発展期(昭和三十一~三十五年)
 昭和三十年(一九五五)に農林省園芸試験場の松井修技官による「混濁果汁」の特許申請、三十一年青森りんご加工株式会社の果汁生産開始以降、次々と果汁部門へ各社が新規参入してくると缶詰と果汁の消費量が伸び、ボイル・ジャムと肩を並べるほどになった。
   (五)果汁躍進期(昭和三十六~四十二年)
 昭和四十年を境として、果汁とボイル・ジャムの消費量が逆転する。四十二年ではボイル・ジャムは全体の三二・八%であるのに対し、果汁は五一・一%となり、以後、果汁の消費量は増加を続けた。この時期は、ニッカウヰスキー、日魯漁業といった中央資本が参入してきた。
   (六)果汁制圧期(昭和四十三年以降)
 この時期で注目されるのは、飲料水業界最大手のコカ・コーラ社が昭和四十九年から果汁部門に新規参入したため、爆発的にみかんやりんご果汁の消費量が伸びたことである。コカ・コーラ社の販売するりんご果汁の原料りんごは青森県りんごジュース株式会社(「シャイニーアップルジュース」を販売している会社として知られている。)から供給されたが、五十四年には、加工仕向率(生産量に占める加工用りんごの割合)が二〇%を超えるまでになった(青森地域社会研究所編『農産加工による地域振興』時潮社、一九八二年)。
 このように高度経済成長の波に乗って、りんご加工業は本市工業の中心となり、発展していくのであるが、それに拍車をかけたのが中央資本であるニッカウヰスキーと日魯漁業の本市りんご加工業への進出であった。

写真165 りんご加工品のパンフレット