ニッカウヰスキーの進出

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本県りんご加工業界に新分野を開くものとして、昭和二十九年(一九五四)、期待を集めて発足した朝日シードルは、その後、思うように販売が伸びないことで資金難となり、三十二年には洋酒メーカーの二ッカウヰスキーと提携し、アサヒビールからニッカウヰスキーへ販路を委託することになった(『陸奥新報』昭和三十二年三月二十日付)。しかし、販売不振は改善されず、発足以来の赤字は約二億円となり、また、地元株主と親会社であるアサヒビール会社との感情的もつれが生じるなど、このままでは会社の存立が危うくなった。そこで、総株数一五万株のうち地元株主が保有する五万株をアサヒビール会社が買い集めて、地元資本と完全に手を切り、資本を一元化して再出発を図ることになった(『陸奥新報』昭和三十四年九月二十三日付)。しかし、再建はかなわず、朝日シードルは三十五年にニッカウヰスキーに吸収されることになった。その後、ニッカウヰスキーはシードル工場の一部を直系工場として、同年七月一日付で弘前税務署からウイスキー生産の免許を得、北海道余市工場から原酒ウイスキーを供給し、弘前工場で東北向け販売の調合生産を開始することになった(資料近・現代2No.四九〇)。

写真166 ニッカウヰスキー工場内

 朝日シードルを吸収してから五年後、ニッカウヰスキーは弘前市藤代(現栄町二丁目)に弘前工場を新築し、四十年七月二十二日、落成式を行った。新工場では、ウイスキーの調合生産のほか、ブランデーやアップルワインなどりんごを原料とした洋酒が製造され、商品は東北地方や関東の一部に出荷されていった(『陸奥新報』昭和四十年七年二十二日付)。

写真167 ニッカウヰスキー弘前新工場落成(『陸奥新報』昭和40年7月22日付)

 弘前新工場落成式に出席するため来弘した竹鶴政孝ニッカウヰスキー社長は、同工場の操業見通しについて次のように述べている。
一、『新工場では北海道余市にある原酒工場から送られるウヰスキー原酒のブレンド(混和)とビン詰め作業を行うほか、津軽りんごを原料としてブランデーとアップルワインの製造を一手に引き受け、全国市場に出荷するので、津軽はもちろん県下の産業振興に寄与することができると思う。

一、東北六県を対象に出荷する以上、新工場を仙台に建設するのが妥当だとの意見もあったが、弘前市をえらんだのは加工原料の〝宝庫〟であること、それに岩木川の水が良質だからだ。操業期間は十月から明年三月までの六ヵ月間だが、津軽りんごの加工向け消費量は十二万箱、これによってブランデー、アップルワインの年間生産量は千八百キロリットルに達する計画だ。加工向けりんごの品種は国光より紅玉が理想だが、青森りんごは豊産続きで販売に苦しんでいるとの声も聞くので、価格を維持する意味からもなるべく品えらびはしないつもりだ。新工場ではオートメーションの技術を大幅に取り入れたので、日産高は現在の三倍に増強され、年々増加する東北地方の洋酒需要にじゅうぶん対応できるものと思っている。

(『陸奥新報』昭和四十年七月二十三日付)

 りんご酒の生産は、これまで県下の企業が何度となく試みたにもかかわらず、成功できなかったりんご加工の分野であったが、中央資本の進出で安定した成長を見せる。なお、シードルはのちに「ニッカシードル」となり、生産は継続されている。