弘前市民の念願でもあった岩木川の改修工事は、水害防止を意図していただけでなく、農業および観光開発を兼ねた岩木川総合開発計画へとつながっていった。戦前の東北振興問題で陳情が集中した岩木川改修問題も、戦後は弘前周辺地区の大開発問題と関連性をもつようになった。その意味で岩木川対策は、弘前市にとって戦前と戦後をつなぐ課題でもあった。
けれども弘前市の災害対策、とくに水害対策に大きな影響を与えたのは目屋ダムの建設であろう。目屋ダムは岩木川上流の西目屋村に建設され、昭和三十四年(一九五九)十月に本体工事が完成して貯水を開始し、三十五年三月に青森県へ引き渡された。ダムによる水力調節によって、農業に欠かせない用水の確保と、氾濫し続けてきた岩木川の洪水を防御することが可能となった。人造湖とはいえ、ダムで作られた美山(みやま)湖は、その名前のとおり美しい。もちろんダムの建設は水流に大きな影響を与えるなど、自然形態を破壊することにもなる。巨大なダムを造ることで、砂子瀬地区がダムの底に水没するなど、数多くの犠牲があったことも記憶しておかねばならない。
平成三年(一九九一)以降、目屋ダムを再開発し、機能向上を意図して目屋ダムの直下流に新たに津軽ダムを建設する事業が進行している。これまで目屋ダムは洪水被害の軽減、用水の確保に機能を発揮してきた。だが完成後に計画を超える出水が相次ぎ、渇水により灌漑用水、水道用水などが不足するなど、問題が多発するようになった。津軽ダムは、洪水防止、流水の正常な機能の維持、灌漑用水の補給、水道用水、工業用水の供給、発電を目的とする多目的ダムとして期待されている。ダムが完成すれば目屋ダムは水没し、その役割を終える。しかしそのために砂子瀬と川原平の集落も水没するのである。ことに砂子瀬の人々にとっては二度目の経験となるわけであり、この事実は、記憶されてしかるべきだろう。
津軽ダムは、平成五年(一九九三)十一月五日「津軽ダムの建設に関する基本計画」を公示し、平成十五年度までの予定工期で事業を進めてきた。だが膨大な事業に伴う予算問題をはじめ、数多くの課題が山積し計画は大幅に遅れている。そのため平成十五年十月六日付で、国土交通大臣から青森県知事とダム使用権設定予定者に対し、基本計画の変更案について意見照会が行われている。津軽ダムの問題はまだまだ大きな課題を残しているといえよう。