進駐軍の衛生対策

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弘前市に限ったことではないが、敗戦前後の人々の生活は、現在からみれば大変非衛生的だった。身近な例を考えれば、石油のない日本には石けんが不足していた。そのため三つ編みをしていた女性の髪の毛からシラミがわいたり、石けんのない銭湯のお湯に垢が大量に浮いていたなど、戦争経験者なら誰しも思い出したくない事実が現実にあった。もちろん東京など、人口が多い大都市と農村地域での差はあるだろう。だが弘前市でも、物資不足で石けんが不足していたことは事実である。青森県は日本トラホーム(トラコーマ)患者が多かったように、他県に比べて衛生状況は決してよくなかった。
 敗戦後、連合国日本を占領するに際し、各地に軍隊を進駐させた。進駐軍では日本占領に当たり、幕僚部の各部局がさまざまな分野を丹念に調べ上げていた。そのなかでPHWと呼ばれた公衆衛生福祉局が、日本各地の衛生政策を担当していた。PHWが力を入れたのが、DDTの撒布である。DDTは粉末状の殺菌剤で、当時児童を中心に撒布された。敗戦後、とくに南方地域からの引揚者が、チフスやコレラをもたらす傾向が強く、それが人体にもたらす悪影響を防止するためであった。当時の子どもたちは列を作って並ばされ、ひとりひとりDDTを身体全身に吹きかけられた。

写真240 DDT散布

 PHWは、引揚者や児童だけでなく、市内各地の便所やどぶ、溝などにもDDTを大量に撒布し、市内全体の公衆衛生の向上にも努めた。当時は下水道設備もなく、台所や洗濯で出る排水はどぶや溝に垂れ流され、市中心部を流れる土淵川に集まった。川が汚くなるのは当然だった。農作業に必要な肥料にも、人糞肥料が使われていた時代である。公衆便所の汚物がどぶや溝に垂れ流しにされているところもあった。
 PHWの積極的な衛生対策のために、日本の衛生史は大きく変わり、一つの画期をもたらした。予防医学の普及から看護制度、病院管理の導入など、これまで日本になかった衛生施策に、日本の衛生関係当局は大きな影響を受けた。戦後の弘前市が衛生都市として成長していった背景にも、GHQの占領政策、とくにPHWの関与は大きく影響したのである。