東奥美術展

878 ~ 880 / 965ページ
昭和五年(一九三〇)と六年の春に、六花会北溟会白曜会と続く一連の団体の活動を継承する形で、蔦谷龍岬が提唱し、在京の美術家たちを中心とした「東奥美術社展」が弘前と青森の二ヵ所で開催された。昭和六年の秋には、青森県下全域を対象として、東奥日報社が主催する「東奥美術展」が東奥美術社を包括する形で開催された。東奥日報社東奥美術展を開催するまでに、大正十五年(一九二六)十月に一万二〇〇〇号の発刊を記念して、同じく県下全域を対象とする「東奥日報紙一万二千号発刊記念総合趣味展覧会」を開催していた。この総合趣味展覧会は、芸術写真、児童自由画、アマチュア美術、遠州流挿花、新古書画の五つの分野からなり、このうちの芸術写真と児童自由画は懸賞募集にし、大盛況に終わっている。この成果を踏まえた上での、昭和六年の東奥美術展の開催であった。
 東奥美術展は、大正六年に前田照雲が立ち上げた六花会から始まる、北溟会白曜会、東奥美術社と、県下の美術の発展を願う芸術家たちによって引き継がれてきた流れを吸収し、大きく発展させることとなり、県内全域を対象に公募し、優れた審査員を配した。これにより同展は画家たちの中央進出の登竜門的役割を果たすことになり、多くの秀でた作家を誕生させた。また、その報道力で一般の人々へ美術の関心を高め普及させた。

写真277 今純三『松尾鉱山精錬所』

 白曜会から東奥美術社に至る一連の団体の主要なメンバーとして、また、東奥美術展の第一回目から死去する昭和十九年(一九四四)まで継続して審査員を務めたのが、今純三である。早くから東京に出て本郷絵画研究所に入り、岡田三郎助(おかださぶろうすけ)(明治二-昭和一四 一八六九-一九三九 佐賀市)に師事、文展、帝展に入選し、新進の洋画家として注目されていた純三は、大正十二年に帰郷し、銅版画、平版画の研究に専念、日本近代銅版画に先駆的役割を果たした。一方で、純三は師範学校の講師として昭和二年から勤務、優れた美術教育者を多数育成した。純三から学んだ学生たちはやがて教師として県下の学校に赴任し、美術、特に版画教育を指導、今日の教育版画隆盛の布石となった。
 純三の兄・今和次郎(こんわじろう)(明治二一-昭和四八 一八八八-一九七三)は、明治四十五年東京美術学校を卒業後、早稲田大学で長らく教授を務めた。大正の末ごろ、和次郎は「考現学(考古学に対する造語で、現代の社会現象を組織的に研究、考察しようとする学問)」を提唱し、弟の純三とともに民俗と美術が融合した独自の分野を開拓した。

写真278 今和次郎『東京銀座街風俗記録統計図索引「男女INDEX」』