これは、明治五年(一八七二)の学制発布により、弘前では同七年(一八七四)から九年(一八七六)にかけて、公立七校、私立二五校の設置を見たが、このとき小学校舎としたのは、和徳小学が旧藩の倉庫を転用したのを初めとして、いずれも民家の借り上げ利用によるものであったため、新築小学校を建てるチャンスが多くめぐってこなかったことがまず大きな理由として挙げられよう。また、商店建築においても、明治十二年(一八七九)に創立された国立第五十九銀行、二十年代(一八八七~九六)に入ってからの新進銀行、弘前両益銀行など、いずれも商家風店舗で、その後も土蔵造り店舗などを利用した程度にとどまり、洋風化への意思はあまり見られなかったようである。
ただ、その中で、明治十六年(一八八三)に百石町に建てられた「角三」宮本呉服店(現白石町展示館)だけは、宣伝の意味合いもあったのか、内外に擬洋風の採用が試みられた早期のものである。
こうした近代化への立ち後れは、また、廃藩置県により政治や行政の中心地が青森に移されたことと無関係ではないであろう。明治初年(一八六八~)から市制施行までの二〇年間に人口は約八〇〇〇人も減り、産業も酒造業以外見るべきものがなく、衰退感を抱かずにいられない中で、施主も建物の形態までは考えが及ばず、棟梁たちも洋風技術の習得への意義を見出しがたかったに違いない。
しかし、明治二十二年(一八八九)の市制施行に引き続き、明治二十七年(一八九四)の弘前-青森間の鉄道開通が経済的な再起を促し、さらに明治二十九年(一八九六)に第八師団の弘前設置が決まったことで、軍需景気が引き起こされ、市の経済を多大に潤すことになった。
これにより、後れていた弘前地方の洋風建築は、明治二十年代には東奥義塾や弘前市役所などの建築でようやく先進各地に追いつくようになるのである。
写真291 「角三」宮本呉服店(明治16年)