市庁舎の改築に当たっては、国の了解を得なければならなかったが、その際のやり取りを藤森市長は後の回顧談『過ぎにしかた』(東奥日報社、一九八二年)で次のように語っている。
私が建設省(現国土父通省)へ行って事情を訴え、指示を仰いだとき、或る技官から設計はどうしますかと尋ねられ、前川設計事務所へお願いしたいと思っていると答えたら、甚だ面白い、弘前くんだりの庁舎設計に前川先生を煩わすとはぜい沢だ、ときた。よって前川先生と弘前市の関係因縁をるる弁じたら、それは仕合わせだねと、うらやましそうな面持ちだったが、私の気のせいかな。
弘前市役所新庁舎(現本館部分)は昭和三十四年(一九五九)に竣工した。弘前公園追手門と堀を隔てて向かい合う四階建ての建物は、そのコンクリート打ち放しの肌合いの中に近代的な感覚を宿すとともに、「何ともいえぬ素朴さ」(前掲『過ぎにしかた』)も有し、市民に好評をもって迎え入れられた。
その後、弘前市の主要な公共施設の建築は、ほとんどが前川の手に委ねられ、市民会館(昭和三十七年〔一九六三〕設計)、市立病院(昭和四十四年〔一九六九〕)、市立博物館(昭和四十九年〔一九七四〕)、緑の相談所(昭和五十三年〔一九七六〕)、斎場(昭和五十六年〔一九八一〕)と建てられていき、弘前市の新たな景観と個性をつくり出すことになった。また、市立博物館からは外壁を煉瓦様タイルで飾るという手法がとられ、ここに用いられた深みのある煉瓦色が城下町と調和し、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
写真302 弘前市民会館
写真303 弘前市斎場
かつて、国の役人から「弘前くんだり」と言われたこの東北の一地方都市に、これだけまとまって前川作品が見られるのはほかにないことである。明治時代に堀江佐吉らが残した建物とともに、弘前市民はこれを誇りとすると同時に、後世に伝えていく責務があるであろう。