書の伝統

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弘前は、津軽十万石の城下町ゆえ、書の伝統のある町である。藩の公式文書は御家(おいえ)流だが、そのほか宝暦・明和のころから上田流が盛んで、幕末に上田槐堂(うえだかいどう)が現れて二〇〇石取りとなった。上田流では、九代藩主寧親のとき、星野素閑(ほしのそかん)が江戸三筆の一人と言われ、弟子の小山内西山(おさないせいざん)は稽古館(けいこかん)書学頭となり、同じく戊辰戦争で活躍した岩田平吉の父東渓も奥右筆(ゆうひつ)で能書家として有名だった。
 西山に学んだ甥の小山内暉山(きざん)は、稽古館副司から明治になって師範学校書道教師になり、著書三十余冊、門人数百人、うち本間覃山(ほんまたんざん)、高山文堂(たかやまぶんどう)は有名である。覃山も津軽藩士の子で、師の跡を継いで師範学校書道教師となった。青森市合浦公園に友人・門人の建てた頌徳碑(しょうとくひ)がある。高山文堂は、さらに、津軽藩江戸定府の士で、維新のときに弘前に定住した平井東堂(ひらいとうどう)に師事し、平井門下の高弟となった。文堂は長く東奥義塾書道教師を勤め、長男松堂は県立弘前中学校の習字、国漢文を教授すること三十余年に及んだ。松堂は隷書(れいしょ)にも優れ、津軽地方の社寺号、石碑などに遺作が多い。
 大正時代の弘前書道界に新風を巻き起こしたのは高橋閑鶴(たかはしかんかく)である。第八師団の軍人だったが、明治三十五年以来、書を群鵞会会長の岩田鶴皐(いわたかくこう)に学んだ。大正九年弘前習字会を設立、十四年から日本書道振作展覧会に連年入選し、昭和三年無鑑査資格を得、日本美術協会員となった。日下部鳴鶴(くさかべめいかく)流の書をよくし、弟子三〇〇〇人と言われた。