ビューア該当ページ

(五七)一凍紹滴

93 ~ 95 / 897ページ
 紹滴、字は一凍、野榸子と號した。(紫巖譜略)高屋の一族で、【堺の人】堺の人である。父を宗顯といひ、久しく古嶽宗亘に參禪して、宗義を解した。一凍幼時父を喪ひ、金剛山龍門寺に入り、古嶽の門弟、雲岫祥首座に學び、宗〓の名を與へられた。十六歳剃髮得度し、南宗寺に來つて、大林宗套に隨侍すること數年、祥首座の歿後は、【南宗寺駐錫】南宗寺に留つて、大林の法嗣笑嶺宗訢に參し、苦行修練、禪要を究むること久しうして、天正十年八月遂に印可を得た。此時宗滴を紹滴に改め、一凍の號を附與せられた。同十一年三月京都聚光院主となり、十月德禪寺に移つた。笑嶺の寂後、一派耆宿の合議により、堺の陽春菴に入り、【南宗寺第七世】又同門の請に應じて南宗寺を董し、(古鏡禪師一凍大和尚行狀)第七世となつた。(南宗寺歷世年譜)【大德寺出世】文祿三年五月勅によつて大德寺に出世し、其第百二十六世に上つた。未だ幾何ならざるに、堺に歸り、陽春或は南宗に居つて教化に從ひ、後南宗寺の北隅に、厚德軒を創建して之に居つた。慶長三年八月後陽成天皇、特に明堂古鏡禪師の號を下賜せられた。同十年秋冬の頃より病患を發し、翌十一年の春に至るも癒えず、四月二十三日辭偈を書して曰ふ「七十四年、熱喝嗔拳、末後一句、動搖大千。」と。遂に陽春の西軒に歿した。世壽七十四、法臘五十八。南宗寺開山塔の側に葬られた。後、法嗣澤庵の弟子玄策長慶寺を再興し、澤庵の命により、紹滴を以て其開山とした。(古鏡禪師一凍大和尚行狀)

第十九圖版 一凍偈文