應其始めの名は日齋、字は順良、後木食上人と呼ばれ、興山上人とも稱せられた。其先は近江國佐々木氏より出づと云ひ(高野山總分方風土記七)或は藤原氏の出とも云はれてゐる。(通念集四)幼少既に出塵して高野山に登り、天正元年十一月千手院谷の瀧城院に寄宿し、文殊院勢譽に就いて薙髮受戒し、名を應其と改めた。(高野山總分方風土記七)爾來鹽穀を絶ち、【木食草衣】木食草衣して精進苦行するもの十三年、(高野山總分方風土記七、通念集四、無言抄奧書)同十三年豐臣秀吉大擧して根來寺を燒くや(豐鑑卷二)使者を野山に遣はして、命に遵はざれば乃ち破却せんことを告げ、一山忽ち危急存亡の秋に際した。應其選ばれて開陳の任に膺り、秀吉に謁し、一山の畏服を説いて破却を免れんことを請ふに及び、秀吉其言を容れ、【高野の破却を免る】漸く災禍を免れた。爾來秀吉大に應其を重んじ、同年六月後陽成天皇寺領寄附の綸旨を賜はるに當り、秀吉之に朱印を添へ、同月金堂を再修し、同十四年には命を受けて京都大佛殿造營の工事を監督した。同十八年興山寺を創建し、堂宇落慶の後、秀吉に佛餉料を寄附せられ、文祿二年には青巖寺の寺主をも兼ねしめられた。次いで大塔再營の工を督し、慶長五年に至つて近江の飯導寺に隱退し、(高野山總分方風土記七)慶長十三年十月朔日示寂した。世壽七十三。(高野山文書)
【高野堂の建立】應其の建立するところ高野山諸堂の外、諸國中八十餘所に達し、【堺高野堂修築】其中堺では高野堂を建立してゐる。(續寶簡集五十四)同堂は空海入唐歸朝に際し、北莊九間町に着岸し、假堂を建てたところと傳へられ、其後空海の影像を安置し、高野より往來の僧の宿泊に便し、世人之を高野堂と稱したが、其後宿院町へ移轉したと云はれるところである。(堺鑑中)或は、市之町東五丁舊向泉寺の門前にあつたとも云はれてゐる。(向泉寺緣起)