谷善右衞門は善兵衞善德の長子で、入道して齊泉と稱した。【本草に通ず】【華道の書を著す】人と爲り、大志あり、幼より伯父道泉に從ふて物産の道を學び、能く草本の所生及び能毒の優劣を知り、又花道を花屋市兵衞に學び、後京都に出でゝ池の坊門下に入り、晚年には同門中花席の首位を占め、花道に關する一部九卷の著作をなし、又別に奧祕に屬する一卷を著し、立花拾穗抄と題した。門人多きが中にも、京都の石田半左衞門、堺の長泉庵順道、海野藤右衞門、花屋市兵衞の子市兵衞等は、皆其奧技を傳へたものである。【茶道に達す】又茶湯を堺の茶人隱岐宗沕の上足、橘屋道退に學び、後原叟宗佐の高弟、吟松庵田澤宗柳に習つた。【谷燒の創始】又能く和漢古今の織物及び土器の鑒定に長じ、自ら樂燒を製して自己の名を彫り、或は石堤苑、普聞、齊泉等の名を以てした。作品頗る雅趣あり、茶人谷燒と稱して之を愛玩した。【茶道、華道の奉仕】享保三年有職家壼井義知の推擧によつて、始めて伏見宮邸に伺候し、其後同宮邸の新殿落成移徙の際、命によつて紅葉間の床に松竹梅の立花を奉り、又新居移轉祝賀の爲に參賀の賓客を接待して、紅葉間簀子に於て茶湯を奉仕した。其後貞建親王及び邦永親王姫宮の婚儀の節にも、立花の用命を蒙り、又前例の如く茶湯所の用を勤めた。享保十年十二月幕府、より絲割符十五斤株を附與せられた。(谷氏德惠傳)【堺港灣修築】同十二年其女壻戎之町布屋次兵衞、戎島に防波堤を築き、船舶の入津を容易ならしめんと欲し、江戸に赴きて其所願を果し、歸堺後其所志を遂げず、不幸短命にして病歿し、同志の者は皆此事業を遂行するの資力に乏しく、次兵衞の苦心も將に水泡に歸せんとした。然るに防波堤築造のことは、堺奉行所より大阪奉行所の支配に歸したから、大阪奉行所は、堺町中に對して、此事業の繼承者を求めたが、皆事を危ぶんで、之に應ずるものがなかつた。是に於て、奉行所は善右衞門を召して事業を繼承すべきを命じた。善右衞門事業の困難と、莫大なる資金を要するを以て、一旦之を辭退したが數度の慫慂に止むことを得ず、遂に意を決して事に當り、(堺戒島石堤之記錄、谷氏德惠傳)享保十三年五月十日工を起こして遂に之を大成した。同十七年十二月、願によつて、戎島附近新田を預地として附與せられ、(戎島附洲一件)【帆別錢徵收の許可】元文元年九月、戎島入港の船舶に對し、帆別錢を徵收するの特權を與へられた。(石堤帆別錢石錢に關する文書)同三年十月家名を男平次郞に讓り、入道して齊泉と號し、平次郞は善右衞門を襲名した。【神佛崇敬】齊泉神佛崇信の志篤く、享保四年に天神常樂寺、同六年には念佛寺の神輿を新造した。兩社共に神輿渡御の儀、久しく廢絶して居つたが、寬保元年七月に至り、其復舊の許可を與へられたのは、實に齊泉の神輿奉獻に其端を發したのである。又貴紳の親筆を請得て向泉、常樂兩寺の緣起を再興し、之を兩寺に寄進し、新に戎島の預地内に、天神の旅所を設け、弟久右衞門と共に、林昌寺の本堂を再建する等、よく社寺の爲めに竭した。寬保元年十月五日痢を病み、同三十日享年六十七歳を以て歿した。【墓所】法名を自ら大融齊泉善惠法師と號し(谷氏德惠傳)柳之町東二丁林昌寺に墓碑を定めた。