ビューア該当ページ

(三)方違神社

538 ~ 541 / 897ページ
 【位置】方違神社は三國ヶ丘町に鎭座し、【祭神】天神地祇、素盞嗚尊、三筒男神、息長足日賣尊の四座を奉祀してゐる。緣起に、攝津國住吉郡大依美の川邊に坐す方違大依羅神社鎭祭するところの神四座とある。社の北方には大阪市住吉區に舊依羅村あり、依羅池あり、大和川疏通後兩斷せられて、地勢懸絶したが、依羅川邊の丘原は、卽ち此三國ヶ丘ならんと想はれ、南方は石津原に連亙して居る。崇神天皇の八年冬十二年物部大母呂隅足尼を遣はして、此處に素盞嗚尊を奉祀せしめ、神功皇后の攝政二年三韓より凱旋し、此神境に於て、畝傍山の埴土を採り、御親ら八十平瓫を作つて、【祭祀】天神地祇を祭祀し、皇軍の方忌除災を祈り、應神の朝、素盞嗚尊、三筒男神及び母后を合祀せしめ、方違大依羅神と號し、又茅渟中倉長峽に坐す、三筒男和魂の社とも稱せしめた。(方違宮緣起)傳ヘて、孝德天皇の朝奉幣使を差遣せられ、平治元年十二月關白藤原基實の奏請によつて從三位を授與せられたと云ひ、文治五年三月皇居修理の爲めに祈願、【社殿造營】社殿を造營せられ、後醍醐天皇の朝永福門院の御旨によつて勅願所に定められ、入内、臨時動座又は修理の節は、住吉社と同じく内使を差遣せられ、又住吉社造營の節は、同時に其典に與り、(方違神社由緖調査書)【幕府造營所】德川時代亦之に倣ふた。(文化十年手鑑)但し永正年中の兵火と、享保七年三月の再度炎上で記錄を燒失した。【撫物】斯くして亦勅願所として臨時の撫物は大典の節に、平常の撫物は每歳正月十五日迄に、大典侍の執奏によつて下附を乞ひ、埴土蘆葉の粽及び嚴の眞飴を、大麻に添へて奉獻するを例とした。(方違神社由緖調査書)明治元年九月車駕東幸に方り、【祈禱】同月一七日間祈禱の命を蒙つた。(方違神社文書)公武の崇信篤く、享保九年八月後光明天皇の皇女禮成門院は菊花紋章提燈二張を、【寄進】同十五年二月賢宮は同提燈二張を寄進せられ、同年五月寶鏡寺宮は三國山の扁額を寄與せられた。又同十六年八月紀州侯は心經一卷を、同二十年二月日野西家よりは、神功皇后神影及び王仁の畫像各一幅を奉納した。(方違神社由緖調査書)
 【別當向泉寺】別當向泉寺行基の開創と傳へられ、永正年中兵火後、向井領町卽ち今の市之町東六丁に移轉した。同三年來當社の別當となり、豐臣氏より封田九十石を寄せられ、德川幕府亦同じかつた。(向泉寺緣起)明治維新後神佛分離の際獨立した。【社格】神社は六年三月鄕社に列し、二十八年六月吾妻橋通四丁字北灣戸の村社水天宮神社を當社境外附屬地へ移轉し、四十年一月には神饌幣帛料供進社に指定せられ、【合社】同年二月六日更らに水天宮社を當社本殿に合祀した。同十月十二日鄕社向井神社を本殿に合祀し、鄕社方違天王神社と改稱したが、十一月十一日更に方違神社に復號した。(方違神社由緖書)例祭は五月三十一日に執行せられ、【例祭粽神事】古來粽の祭とて厄除の神符と埴土の粽を授けることになつてゐる。【社寶】社寶に神功皇后甲冑乘馬木像、住吉明神の木像等がある。
   【舊向井神社向井神社方違神社の東南約半町に位し、仁德、履中、反正三天皇、莵道稚郞子、百濟王仁を合祀す。大化六年正月巨勢朝臣鳥麿を神主として、反正天皇の神靈を齋祀せしめたところと傳へてゐる。本社亦一に楯井原社とも稱せられてゐる。楯井とは神功皇后御親ら天神を奉祀し、涌出の靈泉を楯を以て劃せられた故事に因つて楯の井と呼び、又反正陵が其井に向ふにより、向井社或は楯井原社とも呼ぶと云ひ、(向井神社調査書)其東原明神と稱するのは、王仁を祭るが爲め、天王社と呼ぶは、牛頭天王を祀るが故であると云はれてゐる。(泉州志卷之一、全堺詳志卷之上)本社は方違神社と共に別當向泉寺の奉仕するところであつたが、明治維新後神佛分離の際に獨立した。明治六年三月鄕社に列し、同二十六年六月市之町東五丁別當阿彌陀寺の奉祀した無格社如意神社及び末社彦天津積神社を合祀した。境域千六百二十一坪、本殿、幣殿、拜殿、神輿庫を具へ、境内に愛宕神社、神明社の外に小祠四社があつたが、明治四十年十月方違神社に合祀した。(向井神社調査書)